みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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庚申塔 の検索結果:

里人たちの暮らしを今に伝える 草むらの庚申塔(三浦市)

…古びた墓石にまじって庚申塔が2基、馬頭観音の石塔が2基見られます。 この中でも、特に大きく目立つのが寛文8年(1668年)に造立されたといわれている板碑型の庚申塔です。 寛文8年といえば今より350年あまりのむかし、江戸幕府第4代将軍徳川家綱公の治世のころです。 この庚申塔をよく見ると、前面には庚申塔の特徴ともいえる三猿がしっかりと主張していますが、肝心の碑面はすっかりすり減って、まな板のように平らになってしまって、まったく読むことができません。 この庚申塔については、「神奈…

桃を持ってはいつくばる猿 里墓の地の不思議な庚申塔(横浜市港南区)

…残された石仏の中で、庚申塔というものがあります。 この庚申信仰は当ブログでも過去にたびたび取り上げていますが、人間の体内に住むと信じられていた「三尸(さんし)の虫」が干支の「庚申」(かのえさる)の日の晩、人間の体から抜け出しては人間の悪事を閻魔大王に告げ口に行くと信じられていたことから、三尸の虫が体から出られないように庚申の日は夜通し起きている習慣がありました。 その集まりがいわゆる「庚申講」であり、無事に朝まで起きていた記念、強いて言うならば極楽浄土への道すじを保証できた記…

飢饉の思い出を今に伝える 春日神社の梵字供養塔(横浜市港南区)

…、苔むした不動明王や庚申塔がもの言わずしてたたずみ、ずっと里人たちの生活を見守ってきました。 大飢饉から明治維新、続く戦争と敗戦、景気と不景気、そして現在のコロナ禍まで。 力づくで民衆を仏道に引きずり込んで守るといわれた不動明王は、どのようなお気持ちで現代の世を眺めていらっしゃるのでしょうか。 いま、時は変わり、人々の信仰心も薄れて石仏に手を合わせる人も少なく、この御真言の意味を知る人もだいぶ減ったと思います。 小さな神祠も、その謂れもご祭神も伝えられることもなく、日々積もる…

武将と姥の悲しき伝説 日月社と姥子社(横浜市戸塚区)

…の年号が入る道祖神と庚申塔が残されており、この石仏も他から移されてきたものだそうです。 いま、上矢部小学校わきの上矢部第五公園には、当時「姥子社」があったという痕跡もなく、当時はあったであろうお墓も庵も失われ、かつての面影を思い起こさせるものは何も残されていないのが悲しいところです。 この地はかつて悲しい伝説の残る土地でしたが、時は流れてすっかり明るい住宅地に生まれ変わり、すぐわきの小学校からは子供たちが奏でる楽器の音色や歌声が聞こえ、いにしへの人たちの悲哀を慰めているかのよ…

大蛇退治に一役かった 淵野辺山王の日枝神社(相模原市)

…で、この写真の中央の庚申塔は驚くべきことに平成25年のものです。 これは、みうけんが今まで見てきた中でもっとも新しい庚申塔です。 今となっては住宅街の中にひっそりと残された静かな神社ですが、かつてこの地で生まれた多くの大蛇の伝説は、根強く語り継がれ、その御神徳は今なお崇敬の的となっています。 境内はきれいに掃き清められ、どこか凛とした威厳を保つその神々しさの前に、これぞ日本の誇る神道というものかと感動をあらわにしたことは言うまでもありません。 【みうけんさんおススメの本もどう…

泉区のサバ神社に伝わる 遊行聖・木食観正上人石塔(横浜市泉区)

…利用した珍しい建物、庚申塔や西南の役の忠魂碑などが並んでいます。 境内にある石塔は木食觀正碑(もくじきかんしょうひ)と呼ばれるものです。 木食観正上人とは江戸時代後期の僧で、現在の兵庫県淡路島で貧しい漁師の家に生まれ、僧となってからは木の実や果実だけで生きながらえる「木食修行」を行いながら諸国をまわり、文政元年(1818年)ごろに小田原に姿を現しました。 それ以降は小田原を拠点にしながら関東各地を旅し、多くの人を病や悩みから救っただけではなく、木食観正上人の水祈祷は霊験あらた…

諸国を行脚し仏道を広めた 徳本上人の揮毫石塔(三浦市)

…囲には実にさまざまな庚申塔や地神塔が集められており、その年代も造像もさまざまで、さながら庚申塔の博物館のようです。 このように境内の本堂やかめくり観音さま、石塔群に目が行きがちな光照寺なのですが、本堂に伝わる参道の脇には一基の苔むした石塔が立っており、表面には流れるような書体で「南無阿弥陀仏」と陰刻されています。 これこそが、仏道を説いて全国を行脚した、廻国行者として名高い徳本上人の揮毫石塔なのです。 徳本上人は江戸時代に庶民に信仰を広めるために、わずかな布施をたよりに全国を…

かつての街道を見守る 江戸期の石仏と墓標たち(三浦市)

…。 もともと道祖神や庚申塔をふくむ石仏というものは街道の辻などに置かれましたが、ここもかつては街道であったことの証左なのでしょう。 石塔群は、手前に4基、後ろに2基の合計6基が残されています。 手前の4基のうち左端は、「南無阿弥陀仏」と陰刻された「念仏塔」です。 両端には「天明七未年」「五月十三日」と刻され、正面に「南無阿弥陀仏」の名号が陰刻されています。 下の方には「稲取村」「〇〇村」の村名が陰刻されています。 「〇〇村」の部分はよくわかりませんが、そのままでは「吉戸村」に…

数え切れぬ願いを込めた 路傍の石仏塔群(寒川町)

… また、こちらにある庚申塔には「右なんご 左あつ木 八王子」との陰刻がされ、古くには道標としての役割も持っていた事がうかがえ、また当時からこのあたりは街道を結ぶ「辻」として機能していたのでしょう。 このような、一見してどこにでもあるような石仏、石塔にも数えきれないほどの人たちの、数えきれないほどの願いと祈りが込められています。 古いものには歴史があります。歴史の数だけ、人々の想いが込められています。 いつかは砕けて土くれと還っていくものであるにしても、そこに込められた人々の願…

咳に苦しむ子供を癒した 羽沢のおしゃもじさま(横浜市神奈川区)

…なおいくつかの石仏や庚申塔が残され、地元の里人たちによってお祀りされています。 そんな羽沢町の、ちょっと路地に入ったところに不思議な祠がありますよ、とお近くにお住いのMさまからご教示頂きましたので、さっそくやってまいりました。 木で出来た簡素な祠の中には、石の祠が祀られています。 この石祠は地元では「おしゃもじさま」と呼ばれて、文化3年(1806年)のものだそうです。 このおしゃもじさまには、その名の通りたくさんの「しゃもじ」が奉納されています。 文化3年といえば江戸幕府の中…

女傑・春日局にちなんだ 吉岡の春日道(綾瀬市)

…、説明看板の脇には「庚申塔」に並んで六角柱の「天照皇大神」がのこされています。 どちらもかなり古い物のようです。 さらに左端には、角柱の側面に「向 左 深谷」などが書かれた簡素な道標が残されています。 やはり、ここは往還の辻だったのかもしれません。 いま、この春日道を通る人もほとんどなく、たまにお墓参りと農作業に向かう人たちが通るばかりの小道になってしまっています。 ただ、この道がかつて日本と江戸幕府の先頭に立って国政を動かした 女傑・春日局の痕跡をわずかにとどめる道であり、…

珍しき庚申塔 青面金剛を持ち上げる邪鬼の姿(三浦市)

…が、その路傍に4基の庚申塔と1基の青面金剛像が祀られているのを見つけました。 今まで御用邸道路は何度も往復してきた道です。 当然、この庚申塔群にも気付いていたはずですが、今回はなぜか手招きでもされたかのように気になったので、原付を停めて立ち寄ってみました。 庚申塔とは、かつての民間信仰に基づいたものです。 体の中に住むとされる三尸(さんし)虫が人間の悪い行いを記録し、庚申の日のs晩に閻魔大王に告げ口しに行くと信じられていたことから、夜に虫が出ていけないように夜通し起きていたと…

昔からの信仰を今に伝える 七ツ木の大日如来と石祠たち(藤沢市)

…けでもありませんし、庚申塔でもありません。 どのような経緯で建立され、いつからここでこうしているのか。 石仏と話が出来るならば、ぜひとも聞いてみたいものです。 向かって右手にある石仏。 先ほどの草刈りをしていた方がわざわざここまで来て教えてくださいました。 こちらが「でーにっさん」だそうです。 もう、ここまで崩れてしまうと大日如来なのかなんなのかは全く分かりません。 しかし、現在でも線香立ての灰は新しく、また石仏の前には玄米が備えられていました。 「こうして今もみんなでおまつ…

防災と退魔の象徴 庚申塔に彫られた雲上の桃(三浦市)

…みた道ですが、そこに庚申塔が4基祀られているのを見つけました。 どれもが江戸時代の物で、当時は体の中に住むとされる三尸(さんし)虫が人間の悪い行いを記録し、庚申の日の晩に閻魔大王に告げ口しに行くと信じられていたことから、夜に虫が出ていけないように夜通し起きていたという民間信仰がありました。 その記念に建てられたのが庚申塔で、三浦半島には他地域に比べて実に多くの庚申塔が残されています。 その中でも、ここに残された4基の庚申塔のうち、上部に笠が乗せられた庚申塔には雲の上に乗った桃…

太古の昔より人々を見守った 五所神社前の明神の楠(湯河原町)

…にいらっしゃったのは庚申塔でしょうか。 今となっては顔面が摩滅してよく分からなくなっているものの、頭上には雲がたなびき、六本の腕にはそれぞれ神具法具の類が握りしめられて、さらに足の下には邪鬼を踏みつけているのが分かります。 この楠の説明版には、現在残る楠は1本のみとなっています。 どのような基準で数えられたのかは定かではありませんが、神社の境内にはもう1本の大きな楠が御神木として今なお青々とした枝を伸ばしています。 御神木の根元から、空を見上げてみました。 わずかなそよ風に揺…

和田朝盛家臣のあしあと 路傍の馬頭観世音(三浦市)

…すが、その脇に八基の庚申塔があり、その左側の端に「馬頭観世音」と大書された石塔が一基見られます。 もともと、三浦半島というところは他地域に比べても格段に庚申信仰が盛んだったようで、庚申塔も数多く残されていて、これらもそのうちの一つにすぎませんが、この中で特に気になったのが、この左端の馬頭観世音の石塔です。 ひとくちに馬頭観世音といっても、やはりその石塔は三浦半島にはきわめて多く残されており特段珍しい物ではありません。 その多くは江戸期に作られたものなので、牛馬の類を供養するた…

疫病退散と極楽浄土への道しるべ 日野立体交差点の地蔵尊群像(横浜市港南区)

…薩ではなく地蔵尊型の庚申塔ということです。 ふつうは庚申塔というのは、青面金剛像であるか角石に「庚申塔」などの文字を陰刻しただけのものが多いので、このような地蔵尊型というのは実に珍しいと思います。 この庚申塔には、はっきりと「延宝八年仲冬上旬」と陰刻されており、庚申の年にあたることから庚申の文字も読み取れます。 これは西暦にして1680年、ちょうど江戸幕府の第4代将軍・徳川家綱公が亡くなって第5代将軍となる徳川綱吉公へと治世が変わった年の、十二月はじめに建立された事となります…

見ているだけでも楽しい 心光寺の変わった庚申塔(三浦市)

…諸磯の各地にあった「庚申塔」などがまとめて祀られています。二列になっていて、前面に6基。後ろにも6基が祀られているのです。 このうち、とても珍しい庚申塔があります。 全体的に駒型の造形で、正面は剣や弓を持った「青面金剛像」です。 ここまでは一見して、どこにでもありそうな庚申塔ですが、その体には巨大な蛇を巻いています。 もしくは、龍のたぐいでしょうか。 その足には、大きな邪鬼を踏んだ姿になっています。 この台座には「講中 十三人組」と記されているのが読み取れます。 この庚申塔に…

かつての人々の暮らしを伝える 小机の猿田彦大神(横浜市港北区)

…古くから猿田彦大神は庚申塔としての役割も担ってきました。 猿田彦大神は日本神話「古事記」や「日本書紀」では、天孫降臨の際に天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神としても紹介され、それがもとで禍を払いのける力がある、と信仰されたとの説があるほどです。 猿田彦大神は「道をつかさどる神」としての存在から道祖神へと信仰の形態を変え、さらに、「大田神」とも呼ばれる豊作の神としての期待もかけられたというのです。 元来、「田の神」というものは山から降りてきて、田…

村のランドマーク 源頼朝の駒つなぎの松(伊勢原市)

…その脇には青面金剛や庚申塔、双体の道祖神も残されています。 これらは江戸期の物ですが、むかしからここが辻と呼ばれる交差点、すなわち各方面を結ぶ重要な道であったことがうかがえます。 道祖神は村の境などに置いて災厄が村に入らないようにする役割を持っていましたが、ここの道も多くの人が村を通過して通ることから、内心では邪悪なものを村に持ち込まないでほしいという村人たちの願いもあったのかもしれません。 この近辺の道は、源頼朝が通った道であるということで地元では「お通り坂」と呼んで大切に…

家畜の供養を願った 珍しい豚頭観音像(三浦市)

…から集められたという庚申塔などが所狭しと並べられています。 前面に6基、後ろにも6基と2列に配置されており、その一つ一つは造形が見事であったりユーモラスであったりするので、別の機会にあらためて解説したいと思います。 その中で、今回着目したのは馬頭観音に混ざって、庚申塔の後ろにひっそりと祀られている珍しい「豚頭観音」です。 コンクリートの壁の中にほとんど塗り込められ、わずかに顔をのぞかせている部分でさえ大きく破損していますが、その表面には今なおはっきりと「豚頭観世音」という陰刻…

今なお亡者に目を光らせる 三途の川の奪衣婆(葉山町)

…は寛文年間の磨滅した庚申塔や、地蔵菩薩、さらに僧侶の墓と思われる詳細不明の丸型石塔(無縫塔)が立ちならび、かつての人々の信仰を今に伝えているかのようです。 合掌礼拝してお寺を出ると、細い道を隔てた先にはすぐに葉山のマリーナが見えてきます。 これらはみな金持ちの道楽で、いつかはこのようなヨットを一隻買って大海原を駆ける趣味など楽しんでみたいものですが、みうけんの給料ではラーメン一杯を買うのが良いところですね。 いま、この葉山マリーナのあるところから遠くに鐙摺の山、そして海宝寺を…

娘を意地悪から守った 門前の田の草仁王さま(海老名市)

…。 全国で信仰を集める不動明王、毘沙門天、阿修羅、また庚申塔に彫り込まれた青面金剛などは皆厳しい顔をされています。 このような明王さまなどは、正しく生きるものを守ってくださるという民間信仰は少なからずありました。この、田の草仁王のお話もそういうところから来ているのではないかと思います。 いま、この龍峰寺の仁王門の中の仁王さまを見上げるとき、人知れずして信者を守ろうとするその大いなる慈悲を目の当たりにしたような思いがして、思わず手を合わせこうべを垂れたのは言うまでもありません。

三浦一族悲劇の哀話 原の身代わり地蔵堂(三浦市)

…ていくと、道の両側に庚申塔や墓碑が並び、枝を切られた銀杏の樹の奥に寂れた小堂がある。 この小堂は臨斎宗 大椿寺の末寺である海潮山 真浄院といって、この辺りでは「原のお地蔵さま」と呼ばれている無住寺であるが、どちらかと言うと町内会などで集まりに利用される集会場のような役割を持っている。 かつて、毎月三の日のつく日は地蔵市の旗が立てられて、商店街は大変な賑わいであったそうだが、今となってはその習わしも廃れてしまったようである。 現在は地蔵堂の扉は固く鍵がかけられ、中の様子は知る由…

本堂裏の崖を支える 石垣となった無縁仏たち(三浦市)

…ところから、角に並ぶ庚申塔の群れを横目に細い路地を入っていくと小さな閻魔堂があり、さらに坂を降りていくと深い谷戸に抱かれるようにして四脚の山門が見えてきます。 ここが、臨済宗寺院である福泉寺です。 こちらの本堂はかつて、日本軍の特攻隊である岩舘部隊の拠点としても使われた過去があります。特攻隊といっても飛行機で敵艦に体当たりするものではなく、ベニヤ版で作ったボートに爆弾を満載して体当たりする「震洋」という特攻兵器が主体でした。 実戦での体当たり攻撃はしないまま終戦を迎えましたが…

山の中にひっそりとたたずむ Tの刻印がなされた不思議な横穴(横須賀市)

…。 なかには、なぜか庚申塔が祀られたものも。 しかし庚申塔などが祀られた穴はここだけで、他の穴は結局使い道がよくわからない。 厳密に数えたわけではないのであるが、この穴は道路の両側に十数基といった単位で整然と並んでいた。 地下水を得るための横穴というか、横井戸のようなものかもしれないと思ったが、その割には水気もなく、横井戸の役割は全く果たしていない。 場所が場所だけに軍事的なものかも知れないし、農業用途にしても、いったい誰が、いつ、どんな目的で掘った穴なのだろう。 このような…

守るべきを失った 悲嘆にくれるか黒石の弁財天群(横須賀市)

…天と周囲に散っていた庚申塔などはすべて一か所に集められていた。 近づいてみると洞窟に変わって、コンクリート製の立派なお堂がつくられて、その中に弁天さまが整然と並べられていた。 郷土史に書かれたとおりの8基の弁財天が堂内へたたずみ、その脇には見慣れない庚申塔などがいくつもならんでいるが、恐らく近くの庚申塔を集めてここに祀ったものであろうか。 本尊とされる弁財天像は宝暦6年の陰刻がある。 宝暦6年というのは西暦にして1756年、徳川9代将軍家重のころであった。家重の治世は波乱続き…

しばしの休息か 専養院の倒れ地蔵尊(横須賀市)

…け珍しい「専養院の百庚申塔」なるものが残されており、その委細は以前に紹介したとおりである。 www.miuken.net この百庚申塔がある、専養院裏手の墓地はさして広くもなく、新旧あわせても簡単に数えられるほどの数だけお墓が残されており、これらはすべて古くよりこの周囲に住み続けてきた人々が代々守り続けてきたものであろう。 そのお墓の裏手には、いくつかのお地蔵さまが残されている。 長い年月のすえに自然と劣化していったのか、それとも明治時代や戦後の廃仏毀釈によって失われたものか…

戸塚の地名の由来 古墳をいただいた冨塚八幡宮(横浜市戸塚区)

…塚姓・富塚姓を名乗る人々にとっては、この冨塚八幡宮の周辺が一族の発祥地であり、祭神の富属彦命は変わらず戸塚一族を守り続けており、この冨塚八幡宮では全国の戸塚氏・富塚氏の守り神として特別に祈祷をしているのだという。 いま、この静かな境内に一人立ち、古墳の傍らに厳かにたたずむ社殿と庚申塔の群れに手を合わせるとき、この地を一族発祥の地として栄えていった戸塚一族の姿と、街道をゆく旅姿の人々が手を合わせていく姿が思い起こされるようで、ここにも歴史の奥深さをしみじみと噛みしめるのである。

真実か伝説か 菊名左衛門重氏の墓(三浦市)

…ていくと、左側の角に庚申塔が残る小路に分岐する。 その小路を入っていくと、右手には田保谷戸といわれる農地が山に抱かれるようにして広がり、道の左手の入り口には小さな庚申塔が残り、その奥にはさらに狭く目立たない農道が伸びているのが確認できる。 この小さな庚申塔の脇は細い農道となっているが、民家の犬に吠えられながら、軽トラックの残した深いわだちに足をとられながら、細くて滑りやすい農道をどんどん登っていく。 すると、坂を登って行った左手には「水田」という表札のかかった、なかなかパンチ…

 

 

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