横浜市泉区のいずみ中央駅から、藤沢市の長後駅まで通る長後街道という道があります。
この道は昔の大山街道であり歴史もある道で、かつてみうけんがこの近辺を大いに気に行って長後街道沿いにアパートを借りてくらしていたことから、とても懐かしいところでもあります。
いずみ中央の駅前から西に向かい、境川にかかる高鎌橋(こうけんばし)を渡ります。
高鎌橋とは、この橋がかかった大正3年(1914年)に高座郡と鎌倉郡を結んだことからつけられた名前です。
橋をわたってすぐに道は分岐し、右に行くと長後街道~長後駅、左に行くと用田バイパスという新道で、かつての七ツ木村の名残をとどめる「七ツ木市民の家入口」という交差点を境川方面へ折れると、路傍に鳥居が見えてきます。
その鳥居の脇には、比較的最近に再建された双体の道祖神がいらっしゃいます。
ここを、地元の人たちは「大日如来」と呼んでいるそうです。
この時に草刈りをしていた方は「でーにっさん」と呼んでいらっしゃいました。
その方が子供の頃には、すでに今のような状態でここにあったという事ですが「詳しくは分からないけどさ、まぁせっかくだから拝んでってよ」という事でした。
古い石段を登っていくと、その上は開けたところになっています。
奥には石の祠が3社あり、その手前にはまるで神社の狛犬のように石仏が2体建てられていました。
いちばん奥には崩れてしまった祠が無造作に積まれていますが、これらのどれもが歴史がありそうなものばかりです。
向かって左手には明和七年の陰刻がある石仏。左がわは削れていますが、左がわにも何か刻まれていたかもしれません。
その尊像は観音さまのようにも見えますが勢至菩薩のようにも見えます。
地元の方も「詳しくは考えたことないねぇ」とのことでした。
明和七年といえば1770年。江戸幕府の第10代将軍、徳川家治公のころです。
施主は當村(七ツ木村か)となっており、村民一同での建立ですから墓石というわけでもありませんし、庚申塔でもありません。
どのような経緯で建立され、いつからここでこうしているのか。
石仏と話が出来るならば、ぜひとも聞いてみたいものです。
向かって右手にある石仏。
先ほどの草刈りをしていた方がわざわざここまで来て教えてくださいました。
こちらが「でーにっさん」だそうです。
もう、ここまで崩れてしまうと大日如来なのかなんなのかは全く分かりません。
しかし、現在でも線香立ての灰は新しく、また石仏の前には玄米が備えられていました。
「こうして今もみんなでおまつりしているんだよ」とのことでした。
奥には石の祠が3社。
うち中央の物はとても新しい最近のもので、新しいお花がお供えされていました。狐がいることからお稲荷様の祠のようです。
もしかしたら、昔はもっと立派な社があったかもしれません。
きちんと塚のような小山の上に祀られた小さな祠と石仏たちは、今も物も言わずにただひたすら、この地から眺める事が出来る豊かな田んぼと、そこに集う雀たちの群れを見守っています。
この地域には、横井戸という横穴式の井戸がいくつもあり、河岸段丘から滲み出す水は境川へと流れて人々の生活と田畑を潤してきたところでもあります。
この地でむかしから営まれてきた人々の暮らしと、それらを見守ってきた石仏たち。
時代は流れ、生活も大きく様変わりした令和の時代にあってさえ、神仏を大切に信仰する人々の思いは変わることがありません。
また、物言わぬ石仏たちは今日も優し気なまなざしを向け、新しく奉納されたお米をついばみに来る雀たちを優しく迎えているのです。