国道1号線、いわゆる東海道の南側を東西に走る県道43号線は交通量もなかなか多く、自転車や歩行者なども途切れることがない地元の生活道路ではあるが、その道なみはかつての東海道に近かった名残もとどめ、周囲には道祖神や庚申塔、寺社が数多く残されている。
その中でひときわ目立つのが藤沢で「おしゃれ地蔵」として地域の信仰を今なお集めている双体の石仏像なのであり、そのおしゃれ地蔵は簡素な地蔵堂の中にちんまりと納められているが、常に真新しい花が絶えることもなく、時折とおりすがりの女性が拝んでいくのを目にすることができるのである。
この石仏はお顔の表情すら明らかではなく、周囲の光背にはコンクリートが塗りたくられておりその詳細は全くわからないが、ひときわ目立つのは白く白粉を塗られたお顔と、口紅を真っ赤に塗られたその艶姿である。
このおしゃれ地蔵は「わがまちふじさわの景観」明治地区の景観10選にも「養命寺とおしゃれ地蔵」として選定されており、いわば藤沢市のお墨付きのスポットとして訪れる人も多いようである。
『女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼する」と伝えられており、今でもお顔から白粉が絶えることがないという。
そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。
形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。
平成七年十二月
と記載されているのである。
この双体の石仏の正体が実はどのような石仏であり、どのような経緯でここに来て、今の姿となったのかはまったくわからない。
そして、この光背に塗りこめられたコンクリートは何を意味するものであろうか。
勝手な推測ではあるが、この石仏はもともとは墓石ではなかったか。
江戸期などでは、いろいろな石仏に戒名を掘り込んだものが墓石として多く使われた経緯があり、そのあたりは当ブログでも幾度も紹介したとおりである。
そのような石仏が、いつしか庶民の信仰を集めるに至るにつれて、墓石であることを隠そうとした誰かがこのように戒名陰刻をコンクリートで塗りつぶしてしまったのではないか。これはみうけんの勝手な憶測であるが。
そして、いまひとつ確かなることは、今なお お顔には白く白粉が塗られて、口紅の色も実に鮮やかに輝き、また御前には数多くの化粧品がお供えされているのである。
これほどまでに、如実に女性たちの信心を受けた石仏はなかなか見たことがなかった。これは衝撃である。
この近辺は藤沢宿も近く、街道の宿場町が近いということはそこで働く女性たちも多かったであろう。
くしくも、この石仏には天明8年(1788年)建立の陰刻があったという。
時はまさに天命の大飢饉、日本中で多くの餓死者が出た年である。このころの女性たちはもちろん、多くの村人たちは食べていくのに精一杯であり、白粉など買うことができる女性は高貴なものか、宿場で体を売る飯盛女などの者かに限られていた可能性もある。
この双体の石仏が、そのころから「おしゃれ地蔵」とされていたかどうか。もしされていたとすれば、そんな女性たちが、貴重な白粉を持ち寄って、この石仏にどんな願をかけたのだろうか。
「女性の願い事なら何でもかなえてくださる」
「何でも」、というところに妙に切実さを感じる。
きっと、当時の女性たちの生活は、今の我々には想像もつかないくらい労苦を伴うものだったのであろう。
いま、この小さな石仏に向かって静かに手を合わせるとき、この小さな石仏に一心に願をかけた女性たちの訴えがこちらにも聞こえてくるようで、ここにも時の流れの移り変わりをにわかに感じるのである。