みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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顔に白い粉を塗る信仰 街道沿いの白地蔵尊(南足柄市)

大雄山の駅のあたりから静岡県足柄駅へと向かう道は、現在では県道78号線と呼ばれているが、かつては足柄峠を越える東海道の旧街道であり、足柄街道や矢倉沢往還と呼ばれていた。

 

その為に道沿いには古い石仏や寺社が今なお多く残され、山に近づくにつれて旧街道のたたずまいが深まり、この道が古くから旅人で賑わっていたことを今に伝えているのである。

 

ある秋の日の夕暮れ、この道を原付で走っていると道の脇に立派な石垣で区画された地蔵尊を見た。

 

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境内は綺麗に掃き清められ、そのお顔には一面に白い粉が塗りつけられて表情もよく分からないほどである。

このような珍しい地蔵尊には、かならず興味深い由来があるであろうと、その場でスマホで色々と検索してみた。

 

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江戸後期に編纂された地域史料である「新編相模国風土紀稿」で調べてみると、足柄上郡 苅野庄 弘西寺村の項にて「地蔵堂」の名で「化粧地蔵と唱ふ。誓願する者。必 白粉或 胡粉をもて。佛面を塗抹するが故。この名ありと云。甲州道の側にあり。堂前の坂を化粧坂と云。」と紹介されているのである。

 

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この地蔵尊は万治2年(1659年)の検地帳にはすでに紹介されているという事で、少なくとも江戸時代4代将軍、徳川家綱公のころにはこのような信仰を得ていたようである。

 

みうけんも数々の石仏を見てきたが、現在に至るまでこのように石仏に化粧をさせるという事例は神奈川県では珍しく、ほかに藤沢市の「おしゃれ地蔵尊」が思い起こさよう。

 

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先述の「新編相模国風土紀稿」で「化粧地蔵」と紹介されているこの地蔵尊は、現在では白地蔵尊と呼ばれており、石仏本体の座高は約80センチ、礫岩で作られた祠の高さは約115センチある。

昔から、特に安産と授乳に霊験あらたかであるとされ、布でつくった乳房や赤旗をあげて願をかけ、その願いがかなった暁にはお礼として顔面に「うどん粉」を塗りつける習慣が今なお続いている、と説明看板には説かれている。

 

また、このほかにも、この地蔵尊の境内には表面に南無観世音菩薩、側面に坂東秩父三十三ヵ所巡礼供養と陰刻された寛延元年(1748年)の碑が残されている。

 

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また、片隅の別の石碑には

 

  なにごとも 願いを叶う 地蔵尊

   松のひヾきに 深きかり川

 

という御詠歌も残されて、ここが古くから信仰の場として機能していることを俄かに教えてくれているかのようである。

 

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いま、顔面を白く塗られた地蔵尊の前にひざまづいて手を合わせて物思いにふけるとき、境内の片隅に残された時代も被葬者の名も分からぬ古い五輪塔の群れにトンボが留まり、秋の日の夕暮れを吹き抜ける風は心地よく、静寂の中にかつての信者たちが唱えた御詠歌がにわかに甦るかのようである。

 

 

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