暖冬のうららかな小春日和の中、軽自動車がやっと一台通れるかといったような細い小路を原付で通り抜けていく。
道はどんどんと細くなり、がけの端に張り巡らされた犬走りのような道を抜けていくと、その先には観光客も来ない実に閑静な住宅地が広がり、眼下に三浦三崎の町並みを雄大に眺めることができる。
この先にひっそりと残る三浦地蔵尊第十六番である延命山地蔵堂は、城ケ島を一望できる三崎西浜の高い丘の上にある。
ふだんは無住でひっそりとしているが、三浦地蔵尊開帳の際には多くの参拝客でにぎわう。
自動車では入ってくることもかなわない、狭い急な石段を上ると、境内には大小いくつかの石仏にまじって、長方体の「くぢら塚」の供養碑が残されているのが見て取れる。
正面には大きく「くぢら塚」と陰刻され、左右には「天保五甲午年二月十二日 施主 宇八ほか 宗右衛門 権助 七右衛門」の3人の名が印刻されており、天保5年といえば1834年、徳川将軍第11代家斉公の治世である。
これは天保年間、この三崎の漁業の中心がマグロではなく鯨だったころに、この近くの漁師たちによって建立されたものと伝えられている。
現代ではマグロの遠洋漁業のメッカとして名高い三崎も、江戸時代は半農半漁の寒村であったが、紀伊半島を源とする船人や廻船の来訪によって発展し、産業は次第に漁業と船業が中心となって、今の街並みを形づくっていったと言われている。
技術の発展にともない、漁場も沖合へと徐々に拡大し、昭和初期には三崎銀座通りからは直径80センチにものぼる鯨の背骨が出土したこともある、と松浦豊著「三浦半島の史跡と伝説」に記載されているほど鯨との関わりが深かったとみられている。
天正5年(1577年)、西のほうでは織田信長が絶好調だったころに北条氏に仕えた三浦茂信の見聞録には、
文禄の頃ほひ間瀬口助兵衛とて、尾州にて鯨突きの名人、相模三浦へ来りしが、東海は鯨多く有るを見て、願うに幸甚と銛網(もりあみ)を用意し、鯨を突くを見しより関東諸浦の海人等、銛網を支度し鯨を突く故に、一年に百、二百ずつ毎年突き、はや二十四、五年此の方、取り盡(つく)し、今は鯨も絶はて一年にようやく四つ五つ突くを見えたり、今より後の世に鯨絶果てぬべし
と記載しており、また時は下って江戸時代の宝暦6年(1756年)7月、名主の弥左衛門の日誌には
城ヶ島篝台山の下、岩洗戸浜へ鯨一本流着御注進、宝暦六年七月二十三日島年寄、儀左ヱ門連署、城ヶ島岩洗戸に鯨一本漂着し三崎役所へ注進したるところ、与力中島三郎右ヱ門、同心目付横溝友太夫様御同心福西仁十郎様方々、浦賀に御注進、それより江戸御役所へ御伺、二十五日相すみ
とある。
このように死んで漂着した流れ鯨は、中には漁師が銛を打ったものの取り損ねて逃げたものもいるであろうし、病で死んだ鯨もいたことであろう。
当時も今も浜に鯨が打ち上げられるというのは大事で、今の世でもしばしばマスコミが集まってニュースに流れたりもするが、それは昔も今も変わらないようである。
しばしば漂着した鯨については不思議な言い伝えも残されており、むかし繁栄した船元が漂流していた鯨を拾ってきてからは不漁に見舞われるようになったという話が残されている。
鯨は、このようにして三浦三崎とは密接なつながりがあったようで、ここに残されている「くぢら塚」もそのような鯨の霊を慰めるために建立されたものであろうか、三浦半島では唯一であり、全国的に見ても実に珍しいものである。
いま、この地蔵堂の前にて「くじら塚」に手を合わせ、遠くの崖下に見下ろす三浦三崎の漁師町を眺めれば、かつてこの湾に展開した数多の漁船の旗なびきと、勇ましい漁師たちの声がにわかに甦るかのようである。