横須賀市衣笠の里は三浦一族の拠点であった衣笠城があったところであるが、現在は横浜横須賀道路の衣笠インターチェンジができるなどして交通量も増え、東京や横浜のベッドタウンとして比較的栄えているところである。
その衣笠インターチェンジの出入り口脇には、小さな祠に入ったお地蔵様が祀られており、地元の人たちはこれを咳地蔵と呼んで今なお大切に守っているのである。
この堂内には、こけしのような五輪塔のような異形のお地蔵様が3体仲良く並んで、交通量も激しい横須賀の街でホコリをかぶりながら車の往来を見守っている。
その像容は摩滅しているのかはっきりとせず、陰刻や年代はおろかお地蔵様のお顔までが判別できない状態なのが痛々しく、見るからに憐れでならなかった。
この地蔵尊が咳地蔵と呼ばれる由来にあっては、次のような伝説がある。
むかし、源頼朝が平家打倒の旗揚げをした際にいち早く呼応したのが三浦一族であった。三浦一族は軍勢を繰り出して応援にかけつけるも川の濁流に行く手を阻まれ、敵方の畠山氏と睨み合うが、もともと近隣の豪族であったために縁戚も多く、和睦がなりかかっていた。
しかしひょんなことから戦端は開かれて双方に多大な損害を出しながら停戦、三浦氏は居城の衣笠城に引き上げたのである。
その後、畠山氏は知古の豪族を味方に加えながら衣笠城に襲いかかる。
これが衣笠城の戦いである。
この衣笠城の戦いの際、弓の名手として名が高かった三浦方の和田義盛は、敵の武将であった金子家忠を射抜いた。それを見ていた三浦与一はその首級を上げようと打って出るが、それを阻もうとする金子与一(諸説あり)との「与一どうしの一騎打ち」となったのである。
しかし剛力の誉高き三浦与一、たちまちのうちに金子与一をねじ伏せてしまった。
三浦方の武将が手助けをしようと駆け寄ったが双方とも泥にまみれて判別がつかなかったので、「三浦与一殿はどちらか」と問いかけたのである。
三浦与一は即座に応じようとするが風邪をひいていたために咳き込んでしまい、その隙をかかれて金子与一に首をかかれ、無念の最後を遂げたということである。
この話を聞いた村人達は、もし三浦与一が風邪さえ引いていなければ命を落とすことはなかったであろうと、その死をいたく哀れんでこの地蔵尊を建立したと伝えられている。
その後、いつしかこの咳地蔵は咳に効く、呼吸器の病気に対して霊験あらたかであるという話がついて、一時期はのどを患った人たちから手向けられる香華が絶えなかったという。
時は流れて咳地蔵の周りは開発が進み賑やかにはなったが、通り過ぎる車達はこの咳地蔵に一瞥することもなくホコリを立てて通り過ぎるばかりで、詣でる人もだいぶ少なくなったようである。
これといった案内看板もなく、言われなければこれが地蔵であるかどうかすらわかりづらいものであるが、この物言わぬ咳地蔵に手を合わせて心静かに香華を手向けるとき、この地で咳のために失意の死を遂げた三浦与一と、ことごとく滅ぼされて行った三浦一族郎党の無念が伝わるようで、昔日の出来事が今の事のようにそくそくと思い出されてくるのである。