鎌倉街道から関の下の交差点で分かれ、金沢区へと南下していく笹下釜利谷道路という道があります。
この道をずっと南下していき、打越、栗木の交差点を過ぎて氷取沢へと至るあたりから脇道へと入っていきます。
ここまで来ると歩く人もまばらな道で、傾斜もきつい坂道ばかりとなりますが、どこかに旧道の面影を残した趣のある古道が続いています。
そんな片隅、富岡ひかりが丘公園の南西すぐの小道の片隅に、木々に埋もれるようにしてひっそりと残るのが岩船地蔵尊の祠なのです。
このお地蔵様は享保4年(1719年)に作られたもので正式名称を「岩船地蔵」といって、この本体は栃木県下都賀郡岩船町の岩船山高勝寺であるとされています。
この岩船山は、もともと霊魂の集まるところとして信仰を集めてきた山であり、関東の高野山とも、関東の善光寺とも呼ばれていました。
宝亀年間(西暦770年ごろ)から盛んになった地蔵尊信仰に乗って関東屈指の地蔵霊場となり、今なお多くの参拝者が集まるところとされています。
もともと地蔵菩薩というのは、死後さまよえる亡者の手をひいて極楽浄土へと導いてくれる慈悲の菩薩であり、人間が死後の世界に行くとされる六つの世界、「六道」=天上界、人間界、阿修羅界、餓鬼界、畜生界、地獄界で彷徨い苦しむ亡者に慈悲を施してくれる菩薩として、また死後の審判を下す閻魔大王の化身ともして信仰を受け、その名残りとして今なお多くの六地蔵が残され、また交通事故の現場にはお地蔵様が建立されたりしているのです。
この岩船地蔵は、その名のままに岩で出来た船の上にお立ちになっており、海が近かったことから航海安全の守護神として祀られ、また何らかの理由で三途の川を渡れなくなってしまった亡者たちを集めて船に乗せて極楽までの案内をするとして信仰されました。
かつて、今より衛生状態も良くなく、医学も発達していなかった時代。
子供たちにとって、まずは生き延びて大人になることが闘いだったわけですが、運悪く幼くして亡くなってしまった子供たちは三途の川を渡ることができず、いつまでも賽の河原で小石を積み続けては鬼たちに崩される、という苦行そのものの修行を果てしなく続けなくてはならず、そんな哀れな子供たちを救い、船に乗せてくれる存在として多くの信仰を集め、その名残りとして今なお子育てと安産の守護仏としても信仰されています。
岩船地蔵尊には美しい御詠歌が残されています。
帰命頂礼岩船の 地蔵菩薩の蓮の池
水は無くとも船走る 船は白金 ろは黄金
金銀帆柱おしたてて 六字名号 帆にあげて
地蔵菩薩はさおの役 あまたの仏を皆のせて
極楽浄土へすらすらと 極楽浄土の大門は
金銭づくではひらかぬが 念仏修業でおしひらく
念仏修行はありがたや 念仏修業はありがたや
※ 帰命頂礼(きみょうちょうらい)=自分の頭を仏の足につけて、またはつくほどに頭を下げて仏への帰依を誓い、祈ること。
※六字名号(ろくじみょうごう)=南無阿弥陀仏。
この岩船地蔵尊は今なお里人たちの信仰を集め、多くの花や香華が手向けられ、新しい祠の前は綺麗に掃き清められています。
ここから眺める金沢の街は美しく、遠くには東京湾を行き来する船の往来を眺めることもできて、この風光明媚さは筆舌に尽くし難いものがあります。
いま、この岩船地蔵さまに手を合わせて深々と祈りを捧げるとき、背後から海風に乗って聞こえてくる船の汽笛がまるで御詠歌のように聞こえ、秋も深まる晴れた日の美しさによりいっそうの情景を彩ってくれているのです。