神奈川県の相模原市には、「縁切り橋」という伝説が残された橋が2つあります。
片方は、境川の縁切り橋で、東淵野辺2丁目と町田市木曽西12丁目を結ぶ中里橋。
こちらは南北朝時代に、淵辺義博が妻子とお別れしたという伝説が残っており、「縁切り榎」というエノキの木ともに残っていますが、こちらはまた次回の取材としたいと思います。
今回紹介するのは、鳩川にかかる縁切り橋で、正式な名称は三谷橋といいます。
下の写真の、道路の奥に見えるのがその橋です。
いつの時代かははっきりしませんが、ずいぶんと昔、この近くに住んでいた兄弟がいました。
兄はまじめで働きものであったので日ごろから忙しく働いていましたが、弟の方は昼間から酒を飲んで寝てばかり。
おまけに酒癖が悪く、いつも酔っぱらっては暴れるので村の者からもすっかり嫌われ、まったく手が付けられないありさまでした。
ある日、あまりの酒癖の悪さに堪忍袋の緒が切れた兄は、この山谷橋まで弟を引きずるようにして連れてきます。
酒に酔って立つことも出来ない弟は「何をするのか」と叫ぶばかりでしたが、兄は弟を持ち上げると橋の上から投げ落としてしまったのです。
さすがの弟も酔いがさめたのか、川の中でおぼれながら助けを請いますが、兄はそのまま帰ってしまいました。
なにしろ、立つことも出来ないほどに酔っていたのですから、泳げるはずもありません。
そんなに深くもない、大人であれば背がたつような鳩川の中で、弟は溺れて死んでしまったのです。
その日から、この橋は兄弟の縁までも切った橋であるという噂が立ち、婚礼の時はもちろん、何かお祝い事がある時はけっしてこの橋を渡らないという風習がありました。
この話を書くときに参考資料にした「相模原民話伝説集」(座間美都治著)には、
いつの頃からか、橋の近くにはお地蔵様が建てられて子育て地蔵と呼ばれ、小さな子どものいる家は皆お参りしたそうです。
夜泣きとかお寝しょなどの時は、頭巾や前かけをつくって納めました。
とあります。
今回、この周りをくまなく探してはみましたが、そのお地蔵さまを見つけることはできませんでした。
今となっては、どこかへ移されてしまったのかもしれません。
今となっては、閑静な住宅街の中にポツンと残る小さな橋ですが、思い起こしてみると橋というものにはいろいろな伝説が残されているものです。
それだけ、人々の生活になくてはならないものだったのでしょう。
婚礼の行列や、新婚の仲良し夫婦たちは、かつてこの橋をさけ、わざわざ遠回りをして通った事でしょうか。
いまではそのような風習はすっかりすたれてしまいましたが、かつてここに生きた人たちがこの橋を横目にわざわざ遠回りをしたのかと思うと、今さらながらに昔の人々の信心深さに驚かされます。