みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

帰らぬ夫の帰りをいつまでも待ちわびた 若妻の愛の地蔵尊(大磯町)

JR東海道線二宮駅の北側2.5キロのところに「富士見平」というバス停があるが、ここまでくれば人家はまばらで、周囲は見渡す限りの農村が広がるのどかなところである。


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この、富士見平のバス停の脇にはひっそりと開けた台地があり、その奥には目立たない小さな地蔵堂があるのを見つける事ができる。

この地蔵堂には、特に由来を書いた看板も何もないのだが、この小さな地蔵堂こそが若い夫婦の悲しい哀話を今に伝える、「愛の地蔵尊」なのである。


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このお地蔵様は高さ1メートルに満たないような小さな石仏であり、大切にお堂に納められているため、いつ頃作られたものか陰刻を確認する事は出来なかったが、地域では講が組まれて、今なお毎年春先には念仏をあげているのだという。

 

風土記によれば、この地蔵堂の起こりは今から300年ほど前にさかのぼる。

まだ電車も車もなかった時代のこと、このあたりの村からお伊勢参りに旅立った村人達がいた。

 

何日もかけて東海道を歩き、現在の三重県伊勢神宮で無事に参詣をすませた村人は、また何日もかけて歩いて大井川まで戻ってきたが、大井川や安倍川などの江戸近郊の河川は江戸を防備する外堀としての機能を期待されていたため、橋は一切かけられなかった。

 

そのため、川を渡るには川越人足という渡し守に駄賃を払って肩に乗せてもらう、いわゆる肩車で、もしくは輿のようなものに乗せられて対岸へ渡るしかなかったのである。

 

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しかし、雨が降って川が増水すれば当然のように川越など危険を伴う行為である。

こういう時は役人により川越を禁じる「川止め」となり、旅人は何日も足止めを食うばかりか、宿賃もかさんで大きな死活問題であったという。

 

急な坂道はゆっくりでも越えられる。

しかし、役人に逆らえば切り捨て御免の時代、役人に逆らって川止めを突破するのは誉められたことではないし、仮に川止めの禁を犯しても濁流に飲み込まれるだけである。

 

そのような事情があり、当時の人々は「箱根八里は馬でも越すが、越すには越されぬ大井川」と、大井川が東海道最大の難所であると馬子唄で唄ったのである。

 

話を戻して、お伊勢参りから戻ってきた村人たちの話。

この村人達のうち、一番若かった男がいた。この若者は新婚で、可愛い新妻に会いたいがために周りの人々が止めるのも聞かずに川へ飛び込み、お伊勢参りのお土産と、脱いだ着物を頭にのせて無理に歩いて渡ろうとしたのである。

 

見た目はわずかばかり増水しただけのように見えたが、川が深くなるにつれて水面下では流れが激しくなり、やがて男は静かに猛る濁流に呑み込まれ、2度とその姿が浮かんでくることはなかったという。

 

この一部始終を見守っていた村人達であったが、村へ戻った後も、涙を流しながら夫の行方を執拗に聞いてくる若妻を見るのはなかなか辛かったようである。

 

この村人たちは仕方なく、「夫は川止めなど待っておれぬと言い出して、舟で海を廻ってから帰ると先に行ったのだ。まだ帰っていないとは」と、あらかじめ用意してあった作り話を若妻に話して聞かせたのである。

 

ようやく落ち着きを取り戻した若妻であったが、再び幾日待とうとも夫が帰ってくるはずもない。

 

ついに若妻の気はおかしくなり、旅人を片っ端から捕まえては夫の行方を知らないか問いただしたりしてみたが、一向に夫の行方がつかめるはずはなかった。

 

若妻は少しでも海が見えるように、夫の帰りが分かるようにと現在の湘南富士見平へ登り、何日も何日の夫の帰りを待ち続けた。

 

しかし、幾日、幾月、待とうとも夫の姿など見えるはずもなく、家に戻る事すら忘れてしまったかのような彼女は、ついにこの淋しい森の中で、夫の名を呼び続けたまま息絶えたのだという。

 

時は流れて120年ほど後(今から180年前)に、この話を聞いた女性がいたく感動し、私費を投じて地蔵尊を建立してこの若妻をねんごろに供養したのが「愛の地蔵尊」である、と大磯町の公式HPなどでは解説されているが、それにしてはやけに新しく感じるので、この地蔵尊は新しく作り直されたものかもしれない。

 

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このような逸話から、この辺りは「泣きの原」と呼ばれるようになった。

この地蔵は村人からは「泣きの原の地蔵様」と呼ばれ、婚礼の際には花嫁の行列はこの地蔵尊の前を避けて通るようになったのだという。

 

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いま、この小さな地蔵堂の脇には簡素な「鳥獣供養塔」がある程度で、これといった由来書も説明書きもなく、通り過ぎる車たちは足を止めて手を合わせることもなく、ただひっそりと忘れ去られたようにここに鎮座し続けている。

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いま、この地蔵堂に向き合って静かに手を合わせるとき、この物言わぬ地蔵のどこか悲しげな表情の中に、愛する夫を求めて泣き、さ迷いつづけた哀れな若妻の嗚咽が今にも聞こえてくるようで、ここにも運命というものの非情さをしみじみと感じるのである。