JR線の保土ヶ谷駅を降り、東海道を西へ下ってしばらく行くと、保土ヶ谷本陣の跡の碑が残る。
そのさらに先にある路地を入っていくと、車が1台通るのがやっとという細い路地の奥に、瀬戸ヶ谷の八幡社が静かな雰囲気のまま残されている。
この瀬戸ヶ谷の八幡社には、こぢんまりとした社の脇に小さくも美しい真紅に塗られた稲荷社があり、これを地元の人は「おなべ稲荷」として親しんでいるが、この八幡社とおなべ稲荷にはいかにも昔話らしい、しかして不思議な狐の伝説が「おなべ稲荷の由来」として残されているのは以前紹介したとおりである。
この瀬戸ヶ谷の八幡社には、おなべ稲荷だけではなくもう一つの不思議な伝説が今に残されている。
いつ、だれが奉納したかわからないが、うやうやしく奉納された砲弾の脇を通り抜けていくと、そこは崖にへばりつくようして菊水観音堂が建てられているのが見えてくるのである。
この菊水観音も、おなべ稲荷と同じように観光地や名勝としてではなく、親から子へ、子から孫へと代々言い伝えられた昔話と信仰の場として、今なお地域の人々から愛されて崇敬されているのである。
江戸時代に編纂された地域誌である「新編武蔵国風土記稿」から抜粋すれば、
菊水観音出現跡 鳥居に向かひて右の方なり
楠の株ありてその根の際に少しく窪きところあり
この底に清水をたたえ きはめて清冷なり
病者 常にこの水を服して平癒し あるいは眼病を患ふるもの この水にて あらふときは 験ありと云ふ
と記載されて、そのあらたかな霊験を物語っている。
菊水観音にはいろいろな謂れや伝説がある。
たとえば古代中国、周の5代国王であった穆王(ぼくおう)の小姓が現在の河南省あたりに流されたとき、そこに咲いていた菊にかかっていた露を飲むと、命が助かったばかりか不老不死となり「菊慈童」という仙人になった伝説がある。この菊慈童は菊水観音の仮の姿とされ、菩薩がこの世に出てきて民衆を救うときの姿であるとして信仰を集めてきた。
日本では、後醍醐天皇に忠節を尽くした楠木氏の家紋が菊水紋であり、「大楠公」「小楠公」は死後には皇室護持の神仏であった菊水観音になったという伝承が残されているのである。
先ほども引用した「新編武蔵国風土記稿」には「楠の株ありてその根の際に少しく窪きところあり」とあり、ここにも関連性をにおわせているが、楠木氏の伝承を意識したものか、たまたま楠が近くにあったのかは分からない。
だが、かつてここには確かに霊験あらたかとされる霊水が湧き出して、病に苦しむ人々からの篤い信仰を受け、連日お参りする人が絶えなかったという事である。
医療が発達し、多くの人が長生きするようになったいま、その頃合を見計らったかのように菊水観音堂の霊泉はほとんど出なくなり、お参りする人も途絶えつつあるようで一面に蜘蛛の巣がかかっていた。
いま、訪れる人もまばらなこの菊水観音に手を合わせ、わずかに滲み出した水と指にとってみれば、移りゆく時の流れと科学万能の世界で忘れ去られていく観音妙智の霊力がよみがえるようで感慨深いものを感じるのである。