相鉄線の三ツ境駅から北側、中原街道の旧道沿いに矢指市民の森があり、その近くにこぢんまりとした地蔵堂があるが、これは地元では岩船地蔵と呼ばれて親しまれている。
岩船地蔵尊と呼ばれている地蔵尊の中には、本当に岩船に乗っている地蔵尊や、小さな岩船をたくさん奉納されたものが数多く残されており、特に神奈川県は海に接していることもあってかその造例は多く、当ブログでもたびたび紹介させて頂いている。
が、しかし、この矢指の岩船地蔵尊は見た感じでは岩船には乗っておらず、もしかすると長い年月をかけて失われたのかもしれない。
この岩船地蔵尊は由来はハッキリしないものの、明治・大正・昭和にかけての初期までの約三時代に続いて多くの人々がお参りに来ては祈りを捧げ、そのうえ祈願が成就した実例は数知れず、かつての旧都岡村・西谷村・二俣川村・瀬谷村などからますます信者を呼び込んだと、昭和46年3月付の由来書に記載されているのである。
この岩船地蔵尊のお参りの仕方は独特である。
まず、地蔵堂にて自らの体の悪いところが治るように一心に祈る。
帰る際は地蔵堂内の小石を持ち帰り、清浄な所に安置するが、毎日の朝、夕にその石で患部を撫でると必ずや快癒するのだという。
祈願中は毎月23日の縁日、3月23日の大供養日を目安に必ず月に1度はお参りをする。
こうして、無事に病が癒えたらなば清流にて数個石を集めて、また地蔵堂に奉納するか、または幟旗を奉納するのが習わしだという。
なるほど、地蔵尊の足元をよく見てみればたくさんの石が奉納されて、そのうちのいくつかには日付や名前などが書きこまれているのである。
この地蔵尊は、丁寧に般若心経が書きこまれた前掛けに包まれており、年代を記す陰刻を読み取る事は出来なかったものの、ここでこうして、ずっと長い間、多くの民衆の願いを聞いて、愛され続けてきたのであろうか。
いま、この地蔵尊の前に膝まづいて、石に書きこまれた真新しい日付を読んでいくうちに、平成から令和へと変われども絶えることのない民衆の信仰を今なお感じ取ることができて、改めて深々と頭を垂れては静かに手を合わせるのである。