横浜市鶴見区の生麦あたりを原付で散策していて、子育て地蔵尊なるものを見つけたので参拝してまいりました。
はて、こんな住宅密集地にもお地蔵様がおられるのだなと思って調べてみたら、すぐ脇の浄土宗寺院である入蔵山 究竟院 慶岸寺で管理されているようでした。
さっそく慶岸寺でお話を頂ければと思い訪問しましたが、この時は法事の準備でお忙しいようでしたので、そのまま本堂にお参りだけして慶岸寺を後にしました。
さて、後に鶴見区仏教界による慶岸寺のサイトを確認すると、この子育て地蔵尊は宝永6年(1709年)に安置されたものだそうで、宝永6年といえば徳川幕府第5代将軍であった徳川綱吉公が死去したことにより、その10日後に悪名高い生類憐れみの令が廃止され、さらに徳川家宣が第6代将軍に宣下された激動の年となります。
地蔵堂の中には、金色に輝く立派な地蔵尊の立像が安置され、その周囲には無数の千羽鶴が奉納されて、「往時より安産と赤子・幼児の息災を念じ香煙が絶えない」と上記のサイトにあるように、今なお里人から多くの信仰を集めているようです。
この子育て地蔵尊がどのような経緯で建立されたのか、残念ながら詳しい事は分かりませんでした。
しかし、この子育て地蔵尊が建立されるわずか2年前の宝永4年(1707年)には日本の歴史上最大級とされている宝永地震によって西日本が壊滅させられ、その49日後には富士山 が宝永大噴火を起こすなど、日本中が大きな災厄と悲しみに見舞われたばかりなのです。
この子育て地蔵尊がある道は旧東海道であり、かつて多くの旅人たちが通った道でもあります。
おそらく、その旅人たちが口伝でもたらした被災地の惨状の様子は、この生麦に住んだ里人たちの耳にも入り、大きな不安を抱かせたことでしょう。
このことから、宝永年間に生きた人々の気持ちはさらなる信心を呼び覚ましては、ここに子育て地蔵尊が建立されたのでしょうか。
子育て地蔵尊は、読んで字のごとく子供たちが健やかに健康に育つように、と願いを込められて建立されるお地蔵さまです。
日本中が不安に包まれたこの時代、せめて我が子は安寧に育ってほしい、と多くの親たちがこの地蔵尊に願をかけた事でしょう。
日本が災害大国である事は、昔も今も変わりません。
この東海道に面した子育て地蔵尊に手を合わせ、日本と日本国民の安寧を願う時、今のように情報網も医療も発達していなかった時代に、みうけんと同じようにひたすら安寧を願って神仏に手を合わせた昔日の里人たちの姿が、いまここによみがえってくるかのようです。