みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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湯河原駅前に立つ 土肥実平と奥方の銅像(湯河原町)

東京駅から神戸駅までを結ぶ東海道本線の中で、神奈川県の最西端である湯河原駅までやってきました。この温泉は名湯「湯河原温泉」郷の玄関口となる駅で、ここを越えると次は静岡県熱海駅で、一日の乗車人数6000人ほどの静かな駅です。

 

この駅前にはロータリーがあり、バスやタクシーの他に待ち合わせの自動車がチラホラと停まっているのを目にしますが、人通りはあまり多くありません。

 

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この湯河原駅前のロータリーには、左手に弓を持ち凛と立つ甲冑姿の武将と、その脇にひざまづく女性の銅像が飾られています。

 

これは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてこの近辺を支配し活躍した桓武平氏良文流の武将、土肥 実平(どい さねひら)とその妻の銅像です。

 

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土肥 実平(どい さねひら)は相模西部で栄えた土肥氏の祖とされ、戦国時代に毛利家の重臣となり辣腕を振るった小早川氏の祖とされている名族です。

 

現在の神奈川県の湯河原町真鶴町を範囲に含む足下郡の中でも、「土肥郷」を本拠として相模国の南西部において「中村党」と名乗る武士団を形成し、その勢力は屈指のものだったとされています。

 

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治承4年(1180年)の源頼朝挙兵にも参戦し、源頼朝石橋山の戦いで敗走した中にも土肥実平は加わり、わずか7~8騎で逃避行を続ける中にも源頼朝を見限ることなく忠義を貫いています。

 

この時の7騎をまつった「七騎堂」は、現在もここから徒歩5分ほどの城願寺に大切に祀られています。
この「七騎堂」に関しては、別記事でも紹介しています。

 

 

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幾多もの難関を潜り抜けた源頼朝は、ついに土肥実平の援助により真鶴から房総半島へと逃れる舟に乗って命ながらえ、千葉県で強大な勢力を張っていた千葉氏や上総氏らを味方につけることに成功し、後の鎌倉幕府創設の足掛かりを得たのです。

 

このように源頼朝鎌倉幕府創設に多大な貢献をした土肥実平は、いまの城願寺のあたりを居館にしていたとされ、現在でも城願寺には土肥一族の墓所が残されています。

 

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このように、湯河原を代表する武将であるであった土肥実平の功績を讃えて作られたのがこの銅像です。

この銅像に表現された土肥実平の顔は、何かしらの資料かモデルを模して作られたものなのか、それともまったくの想像なのか、ちょっと興味が湧くところです。

 

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また、土肥実平その人は質素な暮らしぶりで贅沢を好まず、その振る舞いと暮らしぶりは源頼朝からも褒め称えられたとされているばかりか、よく領民を愛して徳政につとめ、多くの領民から敬愛されたということです。

 

今なお全国には土肥実平のものと伝わる墳墓があり、いかに多くの人たちが地域を越え、世代を超えて土肥実平を愛し、近くに置きたがったかというのが今なお伝わってくるかのようです。

 

いっぽう、土肥実平の奥方は、その詳しい名前や生涯についての伝承はほとんど残されていないそうですが、しばしば農民などに姿を変えては敵を欺き、山中に潜む源頼朝の一行に食糧を運び情勢を伝えるなど大きく貢献したとされています。


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この銅像に表現された土肥実平とその奥方の姿は、源頼朝が旗揚げした時より800年を数え、また「土肥会」創設50周年を記念して製作されたものであるそうです。

 

いま、この人数少ない湯河原駅の前に立ち、雨に濡れながら湯河原の街を見据える土肥実平と、それを見送る奥方の姿に向き合う時、まるでかつてこの地にいなないた馬の雄たけびと、土肥家の家紋である「左三つ巴」をあしらった幟旗がどこまでも連なってたなびき、遠くから領民たちが見送る姿が目に浮かぶようで、ここにも俄かに平安時代の時の姿がよみがえるかのようです。

 

 

 

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