各駅停車しか止まらない地味な駅ではありますが、この地域に付けられた鶴間という地名には興味深い由来があるというのです。
広義の鶴間は、東林間駅から境川までの上鶴間、現在はつきみ野や中央林間と町名を変えた地域、南林間駅から鶴間駅にかけての下鶴間と、実に広範囲にわたっています。
このうち、特に上鶴間の中和田というところがあり、このあたりが厳密には鶴間の地名の発祥だといわれています。
今ではあまり聞かれなくなりましたが、古く鶴間に伝わるわらべ歌があります。
〽朝日があたって夕日がはえて
雀がちゅんちゅんなくところ
大釜いっぱい鍋いっぱい
あさ日さし 夕日かがやく木の下に
黄金千両、漆は満杯
この歌は、かつて源義経がひそかに埋めた財宝のありかを伝えた歌だというのです。
京都の五条大橋で武蔵坊弁慶と対決する話は有名ですが、この弁慶との対決は作り話にすぎません。
元暦2年(1185年)、かねてより源平の合戦にまい進していた源義経は、壇の浦にて宿敵平家をついに滅ぼし、京の都に凱旋します。
まもなくして、鎌倉にいた兄・源頼朝にも報告しようと、捕虜にした平宗盛・清宗らを手土産として護送すべく鎌倉に向けて出発します。
しかし、この源頼朝と源義経の仲には大きな亀裂が走っていました。
まず、源義経が兄である源頼朝に断りもなく、官位を受けたこと。
これは、まだ官位を与える立場でなかった兄の源頼朝にとっては大きな屈辱であったようです。
また、平氏追討の際に源頼朝直々から軍監に任じられていた梶原景時の意見をまったく聞かなかったばかりか、配下の東国武士達に対しては厳しく接し、わずかな過ちでも見逃さず責め立て、さらに源頼朝を通さずに勝手に成敗して武士達の恨みを買っていました。
当時、恩賞を求めて源頼朝に従っている東国武士達にとって、ささいな事で戦功を無下にされるのは最大の屈辱であり、源家全体に対する離反の原因ともなりました。
この事は、これから東国武士をまとめようとする源頼朝の方針を粉々に打ち砕くものでした。
また、壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したこと。
さらに、源義経の戦功ばかりが喧伝されて人々の人気を得るという事は、兄である源頼朝の人気を奪うという事でもある、など。
その亀裂の原因は枚挙にいとまがありませんでした。
源義経もその事はよく理解しており、事前に家来の亀井六郎を使者として立てます。
兄に対して、決して異心のないことを誓った手紙を届けようとするのです。しかし、そのような事で兄の源頼朝の不信と怒りは収まりませんでした。
結局、源義経は鎌倉の腰越で門前払いをくらい、捕虜にした平宗盛・清宗のみを取り上げられて満福寺に逗留することになりました。
この時に、源義経が源頼朝に対して敵意がない事を訴えた手紙を書いたのが有名な腰越状ですが、それすらも大江広元に託しただけであり、源頼朝が読んだという記録は残っていません。
この、夢にまで見た懐かしい鎌倉に入る事もできず、ただすぐ目の前まで来て引き換えさなければならない心情を描いたのが、前述の「朝日があたって夕日がはえて」の節につながるのです。
源義経が腰越から京都へと帰るさなか、境川に沿って走る鎌倉道を通ります。
この時に、この中和田の里を通り、浅間神社の境内で一休みをしたのです。
その時、一羽の鶴が鎌倉の方角に飛んで行くのを見て、
わが懐かしい鎌倉に向かって一羽の鶴が飛んでいく。
鶴は自由に鎌倉へ入れるが、我は二度と鎌倉へ帰ることはかなわないであろう。
もう、わが世には春が来ることはない・・・
と嘆き悲しんだといいます。
この時、源頼朝へ手土産として持参した珍器重宝がありましたが、これらももう必要のないこと、とその場へすっかり埋めてしまったのだといいます。
この事からこの地には鶴舞という地名が付き、時の流れとともに鶴間へと変わり、この話を後世に伝えるかのようにわらべ歌が歌い継がれてきたのだといいます。
後年になって、この歌をもとに何人もの人たちが地面を掘り返して宝を探したという事ですが、それらが見つかったという記録は残されていません。
また、源頼朝が狩りの最中に鶴が舞うのを見たので鶴舞という地名をつけたという話、徳川家康が座間で鷹狩りをした際に鶴を見て・・・という話も残されています。
いま、源義経が腰をおろしたという浅間神社は移転し、その跡地にはさびしく手水鉢と塚が残るだけのところとなりました。
この塚ももとは2基ありましたが、現在は開発のために1基だけになっています。
このような一見して何の変哲もないようなところ、どこにでもありそうな鶴間という町名のなかにも、このような悲しいいわれがあるという事を知ると、古い塚のふもとでぼんやりと空を眺める源義経の寂しげな後姿が目に浮かんでくるかのようです。