ある日、衣笠インターチェンジ近くの三崎街道を原付で走っていたところ、コンビニの脇に何か小さな石碑があるのが目につきました。
脇の電信柱ほどの太さの石碑で、途中で折れたものを補修してあるものの、はっきりと「従是西百六十■ 金子十郎家忠陣屋跡」と陰刻されているのが読み取れます。
ここに出てくる金子家忠というのは、どういう人物でしょう。
金子氏は、平安時代末期・鎌倉時代初期に武蔵国、狭山丘陵の周辺に本拠地を置いた武蔵七党と呼ばれた名族の中の一つで、もとは桓武天皇の流れをくんだ村山氏の傍流とされています。
現在の埼玉県入間市、かつての入間郡金子郷に居を構えた、金子家範(かねこいえのり)という人が金子氏の祖です。
金子十郎家忠はその息子で、19歳の時に保元の乱で初陣を飾りました。
そこでは後白河天皇方の源義朝に従って源為朝が守る白河の御殿を攻め、高間兄弟を一騎討ちで倒すなどの功績をあげています。
治承4年(1180年)には三浦一族の拠点である衣笠城を攻め落とすべく、平家方として畠山重忠などとともに参戦します。
全身に21本の矢を受けても、ものともせずに奮戦するそのさまは、源氏方の敵の大将であった三浦大介義明をも感嘆させたといいます。
しかし、結局は源氏の源頼朝に従い、源義経の平氏追討軍に属して平氏を滅ぼすのに大きな功績を上げました。
その褒章として、武蔵国金子・伊予国新居・播磨国鵤荘などの地頭に封ぜられ、以後子孫は豊臣秀吉に仕えるなど名族として繁栄します。
この陣屋は、その衣笠城合戦の時に設けられたものであるとされています。
実際の陣屋跡は、前述のコンビニ脇の石碑よりも530メートルほど西に離れた住宅街の一角に残されています。
金子家忠はここに陣屋を構えて、三浦氏が立てこもる衣笠城を攻めたということです。
しかし、その後の源平合戦では、源義経を総大将とする一谷の合戦に参加しています。
その時にはかつて敵対した三浦氏の三浦介義澄、さらに三浦氏の傍流である和田義盛と参戦し、さらに三浦氏を攻めた畠山重忠も源氏に臣従して参戦しています。
先ほど書いた衣笠城の合戦では和田義盛によってあごの下を射抜かれたそうですが、その相手を味方として戦うのはどのような心境だったのでしょう。
まさに、「昨日の敵は今日の友」という言葉の通りだと思います。
ここに残された石碑には、金子氏の家紋である「対い蜻蛉」が刻まれています。
蜻蛉と書いてトンボと読みます。現在では漢字で書くことはあまりなくなってしまいました。
もともと、蜻蛉という虫は勇猛な虫とされていました。
そのために戦国時代の武将が好んで家紋にしたものだそうです。
いま、この地は狭い草むらの中に、何基かの石碑がわびしく立ち並ぶだけの淋しいところです。
その脇では小さな子供たちが自転車の練習に励む平和な光景が広がっていて、かつてここに陣屋があり、勇猛な騎馬武者や足軽たちが旗幟をなびかせながら行き来したなどという光景はみじんも感じられません。
この平和な時代にも、かつてここで繰り広げられた戦乱と、その戦乱の中で活躍した勇猛な武将たちの伝説を、苔むした石碑は今でも静かに語り継いでいるのです。