三浦半島を縦断する横浜横須賀道路、通称「横横」の佐原インターチェンジ前の道を南へと向うと、すぐに「満願寺入口」の交差点に差し掛かります。
この交差点を入っていくと見えてくるのが、うっそうとした寺林に抱かれるようにしてある岩戸山 満願寺(いわとさん まんがんじ)です。
臨済宗寺院のこのお寺は、三浦一族の中でも名高い佐原十郎義連の創建とされると同時に菩提寺でもあります。
寺内には本堂のほかにも、鎌倉時代初期の三浦一族が活躍した頃に造像されたといわれている高さ2メートルをこえる木造の観音菩薩像や地蔵菩薩が祀られています。
今は階段上の観音堂には何も納められていませんが、その脇には佐原義連の墓所がひっそりと残されています。
もともと、この岩戸のあたりは鎌倉時代に三浦一族の頭領であった三浦大介義明公の本拠地である衣笠城からもほど近く、三浦一族の政治の中心といっても差し支えないような重要な土地柄でした。
源頼朝が鎌倉幕府創設にむけて旗揚げするや、いちはやくその勢力に加わった三浦一族でしたが、三浦大介義明公の子としても大きな活躍を見せます。
源頼朝から、その多大な功績を認められた佐原義連の墓所だけあって鎌倉幕府からは手厚い保護を受け、かつての寺域はいまよりもかなり広く、壮大なお寺であったのではないかと言われているほどです。
佐原義連はたいへんな弓馬の名人であったとされ、その誉は高く治承・寿永の乱においても大いに活躍したようで、鎌倉幕府が主体となって正式に編纂された史料である「吾妻鏡」はもちろんのこと、その勇姿は平家物語にもしばしば登場するほどです。
特に名高いのは寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでしょう。
切り立った崖を馬で駆け降りる「鵯越の逆落とし」において、源氏がわの最精鋭70騎を差し置いて「このような崖は三浦では馬場のようなものだ」と言うが早いか、先陣を切って一気に崖を駆け降りて一番乗りを果たしたといいます。
それからも源頼朝の厚い信任を受けて頼朝の寝所を守る11人の護衛に選ばれたりもした佐原義連ですが、文治5年(1189年)の奥州合戦の功績が認められて会津の地を得ています。
その後、悲しいことに宝治合戦によって三浦一族は傍流を含めてほとんどが滅ぼされてしまいますが、この会津の系統はそのまま存続して相模三浦氏の家系を守り続け、戦国時代の有力大名であった蘆名氏へとつながってゆくのです。
この佐原義連の墓所とされている五輪塔は、いかにも鎌倉武士らしい質実剛健としたもので、その周囲には従者のものと思わしき五輪塔の残骸が残されています。
木製の観音堂の脇にひっそりと残る高さ170センチあまりの五輪塔は自然石を削り出した素朴なもので、脇に建てられた灯籠には三浦一族の定紋である「丸の内に三つ引」があしらわれています。
よく、三浦一族の定紋は3本の線が太くてほとんど隙間が開かない「三浦三つ引」である、という人がいますが、少なくとも三浦半島の三浦一族の史跡を見る限りでは「丸の内に三つ引」ばかり見るような気がします。
かつては土塀に囲まれていましたが、昭和59年に現在の壁に作り替えられています。
以前の土塀は江戸時代のものだったそうです。
いま、この佐原義連の五輪塔の前にひざまづき、香華を手向けてはるかなる歴史に思いを馳せるとき、墓所の背後の裏山から舞い落ちる落ち葉の群れは昔と少しも変わることなく、今も昔も幽遠なる時の流れを刻み続けていることに感動を覚えるのです。