みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

悲運の生涯を送った頼朝の側室 妙悟尼の哀話(三浦市)

三浦半島の先端、まぐろの遠洋漁業で栄えた三浦三崎の街の、北条湾に面した丘のふもとにあるのが、もと源頼朝の別荘跡であるという金剛山大椿寺(こんごうさん・だいちんじ)である。

 

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この寺は源頼朝が愛した三崎三御所の一つとして知られ、かつては境内に椿の老木が幾本も茂り、見事な花模様を作っていたからこの名前が与えられたと伝えられている。

 

この大椿寺を開基したのは源頼朝の側室としてたいへんな寵愛をうけた妙悟尼であり、鎌倉建長寺の旭永(きょくえい)和尚によって開山された、大変に歴史のある古刹である。

 

この妙悟尼という女性は、あまり有名ではない女性ではあるが、聞くも悲しき女性哀史に残る悲話を今に伝え、その生涯はあまりにもはかなかったようである。

 

時は建久年間(1190~1198年)、権勢を極めた鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の寵愛を一身に集めた妙悟尼は本名を「妙子」といった、と言われている。

 

岩間尹氏の著書「実録三浦党」によれば、

 

頼朝は妙子を鎌倉伏見広綱の許に託しておいたが、北条時政の後妻の牧の方がこの事を知って、政子に告げたため、性来妬悍の政子は、牧宗親に命じて広綱の家を破壊して、妙子を放逐した。

妙子は三浦義明の三男・大和田義久の葉山の鐙摺の居城に逃れて、保護を求めたのである。頼朝はこの事を聞き義久の邸を訪れて、牧宗親を呼び叱責して、そのもとどりを斬り懲戒した。

頼朝は妙子を大和田義久に託して、三崎の椿御所に居宅を設けてかくまい、三浦党よりの招待に事寄せて、度々ここを訪れ静養した。

 

 とあるが、諸説あってその真相は定かではないのである。

 源頼朝の正妻である北条政子はたいへんに優れた政治力を持ち、晩年は尼将軍とまで呼ばれた人物であるが、元来嫉妬深く気性が激しかったというのは有名な話である。

 

このころの有力者は、だれでも側室の一人や二人は作るのが常識であり、また跡取りを残すためには当然のならわしであった。

 

しかし、源頼朝に至っては、当時最高の権力者といっても過言ではなかったのに、その側室や妾の存在を決して許さなかったのが北条政子であったとされ、それがために側室を密かに作っては別邸に隠して通うのが源頼朝日課であったという。

 

また、他の側室が主人の寵愛を受け、主人の子を身籠ったとあっては自らの立場が浮草のようになってしまう事から、側室にとっても他の側室は許されざる存在である事が多かったのも当然のことであったろう。

 
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このようにして、源頼朝正室北条政子のみならず、なんとか妙子を追い落とそうとする北条時政と後妻の牧の方、その家来たちまでとも対立を深めていき、特に三浦氏族の大和田氏がかくまったことにより北条氏族と三浦氏族との間にも亀裂を生じさせるなど、やっかいな存在となってきていたという。

 

それでも源頼朝の側室の立場を守っていた妙子であったが、正治元年(1199年)、頼朝が53歳のときに相模川の橋供養に出かけた途上で落馬し、この世を去ってしまうと、後ろ盾を失った妙子はひとり悲しい日々を過ごすこととなった。

 

そして愛しい人の菩提を弔うため、名を妙悟尼と改めて尼僧となり、頼朝の別荘跡に一寺を建立して開基となり、ひとりこの小庵にて読経三昧の生涯を送ったのだという。

 

この、時の将軍・源頼朝の側室として華やかな半生を過ごしながら、一転して寂しくわびしい終生を過ごした哀話は今なお語り継がれ、1000年の時を経ようともそのドラマチックな展開は色あせることはない。

いま、妙悟尼の墓は大椿寺から5分ほど離れた住宅街に面するがけのふもとに、住宅と木々にうずもれるようにして淋しく並んでいるのである。


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墓域の入り口には、古ぼけた角石に「妙悟尼」の文字が見えるが、下半分は土に埋もれている。

地域資料によれば「妙悟尼之墓所」などと彫ってあるらしい。


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一番奥が妙悟尼の墓という地域資料もあるが、これは後になってから作られたもののようで、地域資料では手前の宝篋印塔が妙悟尼の墓であると伝えているものもあり、また古い資料では右端の卵型の墓石が写っていないものもあり、その真実はよくわからない。


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これらの宝篋印塔と五輪塔は、今となっては訪れる人もほとんどおらず、さりとて看板などで案内されることもなく、朽ちていく廃屋の傍らで少しずつ、少しずつ落ち葉に埋もれていこうとしているかのようで、ここに一層の悲哀を感じさせている。


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いま、この地で物言わぬ宝篋印塔の群れの前にひざまづき、静かに手を合わせていると、時代の流れに翻弄されながらも強くしなやかに生き、愛する人のために読経三昧の日々を過ごした美しき尼僧の艶姿が目に浮かぶ一方で、その女性がこうして人知れず落ち葉に埋もれていく小さな墓標の下に眠っていることを思うとき、時の流れのはかなさというものをそくそくと感じるのである。