横須賀市佐原の地にある太子山 聖徳院、通称「太子堂」は海中より金色に輝く聖徳太子の像が出現したことにちなむお寺で、以前にも紹介させていただいた事があります。
その「太子堂」の南がわ、現在の三浦学苑高等学校 野球グラウンドにかけての台地は昔から「台畑」と呼ばれていました。
現在ではどこにでもありそうな台地の上に畑が作られたところですが、かつてこのあたりは佐原城と称する城があったと伝えられています。
この佐原城は、衣笠城を拠点としていた三浦氏の第4代目であった三浦大介義明の子、佐原十郎義連の居城であったとされています。
この城は衣笠城の出城のようなものでもあり、周囲の怒田城・大矢部城・小矢部城などと共に、衣笠城の守りを固めていました。
三浦氏は鎌倉幕府の中で重用されて相模国で大きな権力をもちますが、三浦泰村と三浦光村のころ、北条氏との対立は極限に達し、宝治元年(1247年)の宝治合戦において北条氏と激突となり、ここに一度滅ぼされてしまいます。
しかし、それから傍流として生きながらえていた佐原氏を出自とする三浦盛時により、三浦氏は再興されます。
佐原流三浦氏、俗に後三浦氏といったりもしますが、この三浦氏は大きな力をつけて戦国大名へと発展していきます。
しかし、結局は権力を持つことによって再度北条氏との確執を深めて激突を繰り返し、戦国時代初期の永正9年(1512年)、三浦道寸義同公が北条早雲とその子である北条氏綱の軍勢に追い立てられるようにして伊勢原市の岡崎城から小坪の住吉城へと退却します。
戦国時代とはいえ、永正9年(1512年)というのは織田信長(天文3年・1534年生)や武田信玄(大永元年・1521年生)、上杉謙信(享禄3年・1530年生)たち
が生まれるだいぶ前の話ですから、一般的に戦国時代ファンから親しまれている年代よりはだいぶ前の時代になります。
さて、三浦半島に追い込められてもなんとか巻き返しを図った三浦氏でしたが、秋谷の合戦、長坂の合戦、黒石の合戦、佐原山の合戦のどれも敗れてしまい、ついに最後の砦となる油壺の新井城に籠城します。
このうち、「北条記」に紹介されている「佐原山の合戦」というものこそが「佐原城」であったろう、とされているのです。
現在、この地には鉄塔が立ち並ぶほかは長閑な農地が広がるばかりで、かつて血で地を洗う戦場であったとは俄かに信じ難いものがありますが、地元有志によって「佐原里民建立」と刻まれ、明治26年9月8日に建立されたという「佐原十郎義連城跡」という石碑のみが、わずかにその物語を今に伝えているかのようです。
いま、聞こえてくるのは小鳥たちのさえずりばかりという佐原城址の台地の上をひとり歩くとき、かつてこのちに数えきれないほどの幟旗がはためき、馬にまたがい弓を携えた甲冑姿の武将たちが行き交った戦国の世がにわかに偲ばれ、ここにも時の流れのはかなさというものをそくそくと感じ取ったのです。
【みうけんさんおススメの本もどうぞ】