横浜横須賀道路の佐原料金所と横須賀スタジアムに挟まれた住宅街の中に、日蓮宗寺院である太子山 聖徳院があります。
このお寺は「佐原の太子堂」とも呼ばれて親しまれ、鎌倉の身延山本覚寺の末寺として人々の信仰を集めています。
もともとは久比里の宗円寺が兼務していたお寺ですが、宗円寺は浄土宗のお寺であることから、途中から日蓮宗に改宗をしたとも、久村の等覚寺の世話で日蓮宗に改宗したとも伝えられています。
このお寺が聖徳院という由来については、江戸時代の元禄2年(1689年)6月にまでさかのぼります。
このとき、久里浜の海に船を出していた5人の漁師たちが、海の中でまばゆく光るものを見つけました。
不思議に思っておそるおそる網を投げ入れたところ、金色に輝く聖徳太子の像がかかり、たいそう驚いた漁民たちは「これはこれは、なんともったいないことだ」とばかりに海岸に小さなお堂を立ててお祀りしたのです。
漁民たちは毎日お供え物を欠かさないなど懸命におつとめをしましたが、それからというもの漁船は難破する、不漁がつづく、あげくのはてに疫病が流行るなど悪い事ばかりが続きました。
一体どうしたものかと漁民たちが考えあぐねていたある日、漁民達の夢枕に聖徳太子が立ち、「この地の奥に太子山という山がある。本来、自分はそこにおさまるはずであった。すぐに太子山に移すように」とお告げをしたのです。
漁民達が繰り返し同じ夢を見るので誰もがいてもたってもいられなくなり、村中総出で調べたところ、まさに太子山と呼ばれるところが見つかりました。
そこが現在の太子堂のあるところです。
小林勘五郎(かんごろう)と福田縫之助(ぬゐのすけ)という2人が中心となって太子山の里人に相談してお堂を建て、ようやく聖徳太子の像は安住の地を見つけたと言われています。
この時、せっかくなので御首題(御朱印)を頂戴しました。
御宝印が皇族の紋章である菊の御紋であるのは、用明天皇の子であった聖徳太子にちなんだものでしょう。
この太子堂は、今となってはすっかり近代的な鉄筋コンクリート造りのお寺となっていますが、昔の横須賀の漁師たちの素朴な暮らしぶりと信心深さを今に伝えているかのようです。
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