泉区を南北に縦断し、瀬谷区へとつながる環状4号線を北上しました。
とちゅう、相澤川へかかる下瀬谷橋の手前に石仏が並んだ一角があり、その脇の階段を上がっていくと見事な藤棚の奥に赤い屋根を見せる全通院 勢至堂(ぜんつういん せいしどう)があります。
この全通院 勢至堂は、瀬谷区の曹洞宗寺院、瀬谷山 徳善寺の別院であり、瀬谷八福神の寿老人さまとして名高いですが、勢至堂というからには、言うまでもなくご本尊さまは勢至菩薩さまです。
この勢至菩薩さまには、今でも不思議な言い伝えが残されています。
今よりさかのぼること240年、延享(えんきょう)元年(1744年)のことです。
この時代は江戸時代の中頃で、江戸幕府第8代征夷大将軍の徳川吉宗公の治世です。
このころ、現在の大和市深見の容村(いりむら)というところに、たいそう信心深い中丸左源太(なかまるさげんた)という人が住んでいました。
ある夜、左源太の夢枕に小さな仏さまがたち、はっきりと「いま、わたしは土の中に埋もれているが世に出て人々に仏の道を説きたいのだ。どうか地上に出してほしい」と訴えるのです。
翌朝、左源太は夜が明けのも待ちきれずに鍬をかつぎ、夢枕で指示されたところへいきました。
そこには、もともと鹿島神社があったところでしたが、その土地を掘ってみると土の中から仏像が出てきたのです。
左源太は驚きながらも、仏像を綺麗に洗い清めて村の祠にお祀りしました。
この時に出てきた仏像が、いま勢至堂に祀られている勢至菩薩であるということです。
しばらくたったある日、またもや左源太の夢枕に勢至菩薩さまが現れました。
「私はもっと多くの人に、仏の智慧をさずけたいのだ。どうか、皆が平安に暮らせるように、私を携えて諸国を巡ってほしい」と訴えるのです。
信心深い左源太のこと、さっそく祠から勢至菩薩さまを取り出して厨子に納めると、それを背負って諸国を巡り、会う人々に勢至菩薩さまのありがたさと、今まであった事を説いて回ったのです。
こうして多くの人々から崇敬を集めた勢至菩薩さまは、いつの日か全通院 阿弥陀堂に安置され、「智慧さずけのお勢至さま」と呼ばれて人々に愛されてきました。
毎年1月と8月には、23日に縁日が開かれます。
また、12年に1回の午年、8月23日に御開帳されるということです。
特にむかしは8月の縁日は大変なにぎわいだったそうです。
あまりの人の多さに、露店で売られていたスイカが参道に転がると、そのスイカは傷ついて売れなくなることもあり、しばしば参詣の人々に配られました。
当時、まだスイカは贅沢な品だったので、これはお勢至さまのご利益だといわれてたいへん喜ばれたそうです。
また、ここには明治23年から昭和18年ごろまで瀬谷小学校の分校ともいえる下瀬谷分教場がありました。
わんぱく盛りの子供たちが集まるなか、子供たちにひとりの怪我人もなかったことも、お勢至さまのご利益と言い伝えられています。
いま、人影のない静かな勢至堂の境内をあるくとき、遠くには秀麗な富士山をのぞみ、また足元には僧侶の墓に多く使われた「無縫塔」が草に埋もれるようにして並び、ここに生きた昔日の人々の足跡と息遣いを今に伝えています。
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