JR線矢部駅から見て西側は、かつて上矢部新田と呼ばれた開拓地です。
この開拓地の鎮守が現在の村富稲荷であり、寛文年間(1661年〜1672年)に相模屋助右衛門が新田開発を祈願するために稲荷神社として勧請したのが始まりとされています。
さて、今回参考にした「相模原子ども風土記」などによると、もともとは社前に、御神木である松の古木があったそうです。
少なくとも昭和の中期ごろにはすでに枯れてしまい、根元が空洞になったものが残っているにすぎなかったようですが、その幹の胴まわりは3.03メートルという実に立派な物だったそうで、津久井から神奈川へ通う街道の見通しの松としても機能していたそうですから、いかに大きな松であったかが想像できるというものです。
この御神木には不思議な力があり、息を止めて幹の周囲を左から七まわり巡ると、大きな白蛇の姿が見えたという言い伝えがあったそうです。
かつて、この大蛇は村人から多くの信仰を受けていたそうです。
この松の大木に白い大蛇が巻き付いていたのを見たという者も多かったようで、実際には松の根元が残っていた時は大蛇へのお供えものとして、空洞の中へ生卵などを入れておく人もいたようです。
かつて、ここに大人では抱えきれないような巨大な松の根があり、そこにはいつも新鮮な卵や食べ物が供えられていたのでしょう。
仮に、その卵を狐が持って行ったとしても、ここは稲荷神社であるから咎める者もいなかったかもしれません。
これは、狐にとっても嬉しかった事かもしれません。
今では、見た感じそのような松の根元も失われ、簡単な看板が立っているだけのところになってしまいました。
しかし、この境内を歩きながら、かつてこの空に向かって松の巨木がそびえ、遠く街道を歩く人たちの目印となったのみならず、見上げるような巨大な白蛇が炎のような舌を出しながら、そのうろこをギラギラを光らせながら、この松の木の幹に巻き付いていた姿が眼前に浮かぶようで、ここにも民話というものに秘められた里人たちの信仰を思い出したのです。
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