海老名市の中新田のあたり、県立中央農業高校の近くに「川寿稲荷神社」という神社があります。
ここは昔からの農村地帯で、30年ほど昔は一面の田畑の合間合間に家が建つような所だったと記憶していますが、最近になって徐々に住宅地へと姿をかえていっているようです。
社殿はこぢんまりとしており、訪れる人もまばらな無人の社ですが、どことなく静謐さの中に威厳をそなえたお稲荷さまです。
また、ここに伝わる「稲荷がくれたアリの卵」の伝説についてはすでに紹介したとおりです。
さて、この川寿稲荷神社のに伝わる「稲荷がくれたアリの卵」のお話については以下のリンクをご参照頂くとして、
ここには戦国時代の徳川家康の家臣団だった人たちの足あとが残されています。
境内にひっそりと眠る「六刀碑」の記念碑がそれです。
時代は戦国時代真っ盛りの天正18年(1590年)にまでさかのぼります。
豊臣秀吉による小田原城攻略がひと段落して徳川家康が関東を治めるようになると、徳川家康の老臣であった高木主水助清秀(たかぎもんどのすけきよひで=以下、高木清秀)が5000石を賜り、中新田に居をかまえていました。
徳川十六神将の一人として称えられている高木清秀という人は、もともとは三河国(現在の愛知県東部)のひとで、織田家に仕えて各地で奮戦に次ぐ奮戦を重ねていたといいます。
しかし、織田信長が本能寺の変で死去すると主君を徳川家康へと変えて徳川家のもとで働くようになりました。
小牧・長久手の戦いや小田原城攻略での戦いが大いに称賛され、天正18年(1590年)に武蔵・上総・相模の三か国に5000石もの大知行を賜り、4年後の文禄3年(1594年)には三男・正次に家督を譲って相模国海老名にて隠居生活を送り、慶長15年(16010年)に亡くなるまで85年間の生涯を生き、その間に受けた刀傷は45カ所にものぼったといいます。
当然、徳川家康からの信任もあつく、徳川家康が平塚などで鷹狩をした帰りには高木清秀の家に立ち寄っては服などを下賜していた、といいますから、いかに徳川家康にとって大切な家臣であったかがうかがえます。
いっぽう、家督をゆずられた三男の正次は、元和9年(1623年)に河内国(現在の大阪府東部)の領主となったために海老名の地を去って赴任していきました。
その家臣であった内田氏、遠藤氏、盛屋氏、杉本氏、鈴木氏、小川氏の6氏はこの地にとどまって土着していきます。
やがて武士から百姓として生きていくこととなり、この稲荷の森に刀を埋めて供養したのだと言われています。
現在も残る「六刀碑」は、その言い伝えを残すために昭和41年(1966年)に子孫の人たちによって建てられたという事で、その脇には
六刀碑 武士すてさりて 農となる
という句碑も見られます。
今となってはすっかり住宅地となってしまった、この「川寿稲荷神社」の周辺も、もともとは内田氏、遠藤氏、盛屋氏、杉本氏、鈴木氏、小川氏の6氏が中心となって苦労しながら開墾していった土地だったのでしょうか。
今、その名残を伝えるものはほとんどありませんが、秋の夕暮れの中にたたずむ六刀碑に触れて、その碑文を読むときに、かつてこの地で刀を鍬へ持ち替えて土と戦った、かつての武士たちの息遣いが聞こえてくるかのようです。
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