横浜市営地下鉄の港南中央駅から山側に登っていくと、港南中学校の裏側の高台にうら手の高台に、松本山法身院・正覚寺という浄土宗の古刹がある。
普段は訪れる人もあまりない、観光地化もまったくされていない所謂「檀家寺」であるが、住宅街の中にありながらその静寂な境内と苔むす庭が、まるで今までこの寺が歩んできた悠久の時間を物語っているようでみうけんのお気に入りのお寺のうちの一つである。
この正覚寺は、戦国時代にこのあたりを治めた後北条氏の家臣、間宮氏が開創した寺で、権現堂の戦いで死傷者を多く出し、さらに権現堂を焼失させた供養のために載蓮社運誉正阿覚冏という僧がこの地に正覚寺を、また吉原に報身寺を開創したのが始まりとされている。
この辺りは現在ではどこまでも住宅の屋根が続く住宅街であるが、かつては起伏の激しい土地であった。高台に登ればどこまでも見渡せたといい、このあたりにあった松の巨木から松本という地名を与えられ、現在の港南一丁目から六丁目を中心に、このあたりを松本村と呼んでいた。
現在では港南という町名になっているあたりも、松本町内会など町内会の名前にその名残をかろうじてとどめ、地域歌「笹下よいとこ」には 〽︎関に 雑色 松本宿に という歌詞が残っていることから、このあたりは宿場町として栄えた時代もあったのであろうか。
また、このお寺のあたりは、この地域が北条氏の治世から徳川氏の治世となってから、改めて徳川氏に仕えた間宮氏を見張る幕府の隠密たちがいた村である、という民話があることは以前にも紹介した通りである。
陽光煌びやかな初春の日、静かな境内には、ただウグイスの艶やかな歌声のみが響いていた。
ひとり苔むした境内を歩くと、境内裏手の墓地の片隅に、詣でる人の絶えて久しき無縁仏の群れがあるのが見て取れるが、この無縁仏が寄せ集められている光景そのものはどこの寺にでもあるものであろう。
そのうちの一つ、見事な如意輪観音が彫られたこの墓石は戒名を「浄譽春清信女」年号を「延宝七己未年六月十一日」とある。
延宝7年は西暦にして1679年、今から340年余の昔である。徳川幕府第4代将軍、家綱公の頃であるから相当に古いものである事が分かる。
そのような時代に、これだけの巧みな彫り業をもってして形作られた墓石であるが、戒名は信女というから一般の女性のものであろう。
この墓の主はどのような生涯を送ってきてここに眠るのかは今となっては知る由もないが、どことなく穏やかにうたたねをする、穏やかで優し気な表情のなかに、故人のおもかげを見出しているような、そんな優しい気分にさせられる墓石である。
いま、この古刹の境内を歩き、苔むした庭先の隅で春うららかな陽光を浴びながら、静かにうたた寝をする観世音菩薩の石像に向き合う時、ここに生きてきて名もなきままに葬られていった数多くの市井の人たちと、彼ら彼女らを何百年と導き見守っている諸仏の功徳がここに今なお蘇るようで、ここにも遠く流れていった昔日の日の思い出を思い起こすのである。