横浜市営地下鉄の港南中央駅から山側に登っていくと、港南中学校の裏側の高台にうら手の高台に、松本山法身院・正覚寺という浄土宗の古刹がある。
この正覚寺は、戦国時代にこのあたりを治めた後北条氏の家臣、間宮氏が開創した寺で、権現堂の戦いで死傷者を多く出し、さらに権現堂を焼失させた供養のために載蓮社運誉正阿覚冏という僧がこの地に正覚寺を、また吉原に報身寺を開創したのが始まりとされている。
よく、寺院などの墓地に行くと、先の大戦により英霊となった地元の住民の墓を見かけることがある。
その多くには「陸軍伍長 某」や、「水兵長 某」といった二階級特進の後であろう階級名の墓が本当にどこの寺にもあるので、先の大戦ではいかに日本中の男たちがかき集められたのか、が良く分かるのである。
この正覚寺にも、墓地の片隅には「陸軍歩兵伍長 某氏」の墓があり、その墓銘の陰刻の両脇には、この墓の主人が如何にして壮絶な戦死を遂げられたのかが記載されており、実に興味深い。
歴史的には全く無名な一兵士であったろう某氏も、こうして墓の戦記を読んでみるや、まるで一冊の本が書けそうな尊い奮戦をされてきた事が見て取れよう。
このお墓の香炉は実に珍しい砲弾型で、数多くのお墓を見てきたみうけんもこのようなお墓は初めて見た。
墓地の柵や墓石そのものが砲弾の形をしたお墓、または玉の代わりに砲弾を抱えた神社の狛犬、そしてこの砲弾型の香炉など、戦争が身近であった時代だからこその意匠なのであろう。
いま、この古刹の境内を歩き、無縁仏の墓跡の中で、春うららかな陽光を浴びてうたた寝をする観世音菩薩の石像を見る時、そう遠くない時代に戦場の華として散っていった英霊を慰めているようで、観音妙智の力が全ての英霊たちに届かんことを願い、思わず手を合わせるのである。