みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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人里離れた源為朝の隠れ里(横浜市港南区)

上大岡は横浜市の副都心と呼ばれて百貨店や商業施設が立ち並び、たいへんな賑わいであるが駅の裏手に入れば静かな路地が続き、駅前の喧騒がまるで別世界のようである。

 

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道を歩けば、なぜか犬小屋に入った庚申塔があったりして面白い。

「わがまち港南の石仏たち」によれば、この庚申塔は平成にはいってからのもの。平成の時代でも庚申信仰がいまだ根付き、夜を徹しての庚申講中が開かれたりしたのであろうか。犬小屋に入っているため背面などを読み取れないだが、実に興味深いことである。

蛇足だが、お供えのパック酒は誰かに飲まれてしまったのであろうか。

 

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この庚申塔のある道から外れて急な坂道を登っていくと、とても車では入っていけないであろう細い路地がいくつも連なり、さながら迷路のような様相であるが、そのところどころにあるお宅には風情のある古式な建築であることが多く、このような路地を歩いているとまるで北鎌倉の古道でも散策しているかのような錯覚を受けるのである。

 

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この辺りはもともと奥深い谷戸で、昼なお雑木林がうっそうと茂る薄暗い場所で、いまでもこの辺りを八郎ケ谷と呼んでいる。

 

八郎というのは、源為義の八番目の子であり、源頼朝の叔父にあたり、鎮西八郎とも呼ばれていた源為朝の事であり、保元の乱で父ととも崇徳上皇に味方して奮戦したものの敗走して落人となって、この谷戸の奥深くに隠れ住んだという伝説がある。

 

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ここには「為朝の祠」と呼ばれる小さな目立たない祠があり、今でも毎年4月25日になると近隣の住民による供養祭が執り行われているという。

 

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さらに近くのふもとには為朝の妻の墓といわれている笠石が祀られているのだという。この笠石は現在の上大岡東一丁目七番の墓地にあったと史料にはあったのだが、いまこの場所には墓地らしきものはなく、すっかり住宅街へと姿を変えて、今となっては訪れる人も少なくなった稲荷社が草木に埋もれていこうとしているだけであった。

 

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その脇には、もはや原型の姿を想像することすらかなわない石仏などが散乱していて、もしかしたら笠石もこのあたりにあったのかもしれない。


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 明治2年(1869年)、折からの豪雨でこの丘の崖がくずれ、それまで知られていなかった横穴がぽっかりと口をあけた。

この横穴からは古い鏡の入った壷が見つかり、「ここが為朝の隠れ穴ではなかったのか」という話も出たのだという。

 

結局、源為朝伊豆大島流罪となるが、伊豆大島から鎌倉に向けて放った矢が矢ノ根井戸の伝説を生み出したことも以前に触れたとおりである。

 

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日本各地には「○○の隠れ里」伝説はたくさんあるが、たとえば港南区内でも春日神社に近い兎ケ谷は武士の隠れ里と言われているところがある。

 

これは鎌倉幕府を創設し源頼朝が幼かった頃に、伊豆の蛭ケ小島に島流しとなり、弟であった源義経までもが京都の鞍馬寺に預けられたころ、頼朝の叔父であった源行家という武将が山伏行者の姿をして諸国を巡っては、その土地土地の武士団に源氏の再興を訴えて回ったのだという。

 

この功績は大きく、再興された源氏はやがて平家を倒して鎌倉幕府を創設するに至るのであるが、しだいに源頼朝との仲は険悪になり、やがて源頼朝により源義経もろとも打倒されてしまうのである。

 

この源行家の家来の中には、紀伊の国(和歌山県)の田井庄からでた武士がいたという伝承があり、この武士は源頼朝源行家の仲が険悪になったころ、武士の身分を捨て山深く人里離れた兎ケ谷の谷戸にひっそりと隠れ住んだという伝説がある。

 

いま、通る人もまばらなこの八郎ケ谷の片隅に、ぽつんと忘れ去られたように立つ小さな石碑の前にいにしへの武士たちの生き様を思い起こすとき、武勇にたけ武士のほまれ高きとたたえられながら人目を忍んで生きなければならなくなってしまった世間の無常と、隠れてこの世に生きていくことの辛さはかなさが思い出されてくるようである。

 

 

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