みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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開発に失われた 海賊退治の石井塚(横須賀市)

横須賀の観音崎公園を貫く観音崎通りを南下していくと、観音崎自然博物館の先に風光明媚な砂浜を望むことができるが、ここは昔から多々羅浜(多々良浜)と呼ばれている砂浜である。 


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 「新編相模国風土記稿」の鴨居村の項には、「石井塚」というのものが記されている。

石井塚は字「塚畑」というところにあり、高さは5~6尺(150~180センチ)という事だけが書かれているが、それ以上の記述はなく歴史的な背景などは分からない。

 

ただ、「新編相模国風土記稿」の編者は「この石井塚というのは、考えてみれば『吾妻鑑』に出てくる治承4年8月24日の項に、三浦一党が畠山次郎重忠と、鎌倉の由比ヶ浜で合戦をしたとき、多々羅三郎重春ならびに郎党の石井五郎が討ち死にしたと書かれているので、このようなことを考えてみると、だんだん石井塚とは何であるのかが明らかになる」と書いているのである。

 

さらに、村の中には「多々羅」の字があり、三郎重春の父、四郎義春は三浦大介義明の四人目の子供であり、初めて多々羅姓を名乗ったこと、そして多々羅というのはこの地の人々が、ここに義春の屋敷があったためについた地名であると伝えていることも記載しているのである。

だが、結局のところ、「新編相模国風土記稿」では「石井塚というものも、郎党五郎が墳なるとも知るべからず」として、結局は詳しいことは分かっておらず、どの逸話も口伝の範疇を出ないのである。

 

現在、この観音崎自然博物館前の砂浜が「多々羅浜」と呼ばれているが、これに関しては多々羅四郎義春や石井三郎、四郎の海賊退治にまつわる伝説が残されているのである。


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その昔、この近辺は海賊が出没するというので三浦半島沿岸の人々は大いにおびえて暮らしていた。

このような境遇を哀れに思った領主、多々羅四郎義春は、領民の恐怖を取り除いてやろうと自らの髷を切り落として船守観音に捧げて祈り、石井三郎と四郎と力を合わせて海賊を退治することになったのである。

 

ある年の10月25日、草木も眠る深夜に海賊船の「毒竜丸」が海賊30人を乗せて鴨井沖に現れて、東浜にひそかに上陸した。

かねてから警戒を強め、海賊退治の機会を狙っていた夜番の者は、ここぞとばかりに力一杯に観音堂の鐘をつき、堂の裏山で狼煙をあげて海賊の襲来を知らせたのである。

 

これを合図に、三郎は北の海から、四郎は南の海から兵船を出して海賊船を挟み撃ちとし、討伐に取り掛かった。

しかし時は深夜、どの船が味方か敵かも分からずに、あわや同士討ちとなりかけた時、突然煌めくような光が観音堂の裏から上がり、深夜を昼間のように照らして、混乱に乗じて逃げようとしていた毒竜丸と海賊たちを照らし出したから、これにはたまらず毒竜丸はたちまちのうちに捕えられ、次に上陸していた海賊たちを追い詰めると小原台の下の谷間へと追い詰めてた行ったのである。


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海上では歴戦のつわものであった海賊でも、陸の上では勝手が違う。

瞬く間に十数人の海賊が討ち取られ、海賊頭領の「夜叉太郎」は最後の奮戦もむなしく討ち取られたが、この戦いがもとで三郎、四郎の兄弟も命を落としたのだという。

残った海賊十数人は副頭領であった「島の浪六」とともに降伏し、ここに一連の海賊退治は幕を閉じたのだという。


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夜叉太郎は公郷の森にさらし首になったものの、この「島の浪六」はもともと善良な漁師であったものが夜叉太郎に捕まって無理に海賊にされたもので、これを機会にすっかり改心して海賊から足を洗い、多々羅四郎義春の口添えもあり観音堂の堂守として余生を過ごすことになったのである。

また、生き残った海賊たちもすっかり改心して、それぞれ真面目に働いて命をつないだという事である。

海賊船「毒竜丸」は「多々羅丸」と名を変えて軍船として使われたという事である。

 

石井塚にあっては、現在の「たたら浜園地」の当りにあったと言われているが、戦時中に要塞地帯としてすっかり形を変え、戦後は公園として再整備されたことから、それと思しき塚を見つけることは現在ではかなわない。

今は塚の代わりに、日本軍の残したトーチカが姿を見せているのがまた皮肉である。

 

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しかし、遠く潮騒のざわめく大海原を望む多々羅浜に立っていると、遠くから海賊の鬨の声と、それを討伐せんと舟を繰り出す武者たちの声が響いてくるようで、また戦時中にトーチカに身を潜めて敵軍の上陸に備えた若き兵士たちの息吹が感じられるようで、この平和な砂浜にも戦いの歴史があったという事がまざまざと感じられるのである。





 

 

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