横浜市の内周をぐるりと巡る環状2号線は現在の横浜市の経済発展になくてなならない大動脈であるが、比較的最近できた道である。
では昔の道は、というと東戸塚あたりから環状2号線を越えて東側に行ったところに、旧東海道の脇道である権太坂(ごんだざか)という細い道がある。
その権太坂から少しだけ裏に入り、現在は近代的なマンションが建っているその脇に、木々に囲まれて小さな石仏が並ぶ一角があり、これこそがかつての東海道の難所であった権太坂で行き倒れた人々を埋葬した「投げ込み塚」の跡地なのである。
ここは昭和に入るまでは訪れる人もまばらで昼なおうっそうと木々が生い茂る淋しい場所であった。権太坂じたいが東海道の脇道であり、それほど通る人も多くはなかったのであろう。
下記は戦後の昭和20年代の地図であるが、右上の権太坂の文字から左下の境木につづく線が当時の権太坂である。
しかし戦争が終わり日本に高度経済成長の兆しが見えてきた昭和30年代に、この辺りを住宅地として開発するうちに、おびただしい数の人骨や馬の骨が掘り出されたのである。
最初は連続殺人事件かと騒がれたものの、その後の調査によって、この人骨はかつて権太坂を上りきれずに行き倒れた人や動物の遺骨であり、ここにはそのような遺体を投げこむための古井戸があった事が分かったのだという。
そもそも権太坂を上るのは大変に難儀するところで、馬車に積んだ荷物を全て降ろさなければとても上れないほどであったという。
その為に、荷物を担いで上がるゴンダという人足が常時おり、そのためにこの坂を権太坂と呼んだ、という仮説もあるほどである。
(「新編武藏風土記稿」には、たまたまいた老人に「ここは何という場所か」と尋ねたところ、老人が自分の名前を聞かれたのと勘違いして「ゴンタです」と答えたために権太坂となった、という記載があるが、こちらが真相であろうか)
今となってはかつての急坂はすっかり整備されて緩やかになり、車社会となってからは国道1号線の抜け道となって猛スピードの車やトラックが駆け抜けていく坂であるが、かつてはひとたび雨が降ると足元はぬかるんで滑りやすくなり、滑落して命を落とすものまでいたというから驚きである。
これは昭和39年(1964年)に改めて建立された「投込塚之跡」の碑。
その他にも、宝永7年(1710年)の庚申塔(右)、天保2年(1831年)の観音像(左)などが残されているが、今でも地元の人から大切にされているのか境内は綺麗に掃き清められ、美しい新緑の玉竜と真新しい花束が彩を寄せているのが見てとれるのである。
ところで、ここから発掘された人骨は南西に1.5キロの地点、平戸交差点に近い東福寺に祀られているのだという。
東福寺は山号を永谷山と号し、臨済宗円覚寺派の寺院であり、開山は建長寺の僧養谷であるとも、応永8年(1401年)に大雅が創建したとも言われている。
比較的新しい本堂に向かって左側に入っていくと、墓地の手前に説明板とともに「無量光佛碑」が建立されているが、これこそが投げ込み塚で掘り出された14体の人骨を納めた供養塔なのである。
いま、真新しい花が絶えないこの供養塔の前に一人たたずんで静かに合掌し礼拝するとき、江戸を目前にして辿り着くことができなかったいにしえの人々の悲しい断末魔の悲鳴と無念が胸に突き刺さるようで、果てしない道のりを歩いて往来していくことの辛さと、そうまでして坂を歩まなければならなかった時代に生きてきた人々の、命のはかなさをひしひしと感じるのである。