大海原を見ながら観音崎通りを原付で駆け抜けて、観音崎公園を抜け鴨居の里に入る手前、小さく東京湾に突き出した半島が亀崎半島である。
この亀崎半島の付け根には「駆逐艦村雨の碑」の案内板が設けられているが、その脇に車がやっと一大通れる程度の細い道があり、この道を進んでいくと亀崎半島の先端に出ることができる。
亀崎半島は東京湾に小さく突き出た、ごく小さな半島で、どちらかというと岬程度のものであるが、その先端からは東京湾が一望でき、また訪れる人もあまりない眼下の海は大変美しく、ゴミ一つ落ちていない白い砂浜には穏やかな波が寄せては返して海藻を打ち上げる三浦半島の原風景を楽しむことができる穴場なのである。
その亀崎半島の先端には、お寺というよりもお堂というにふさわしいほどの小さな堂宇がぽつんとたてられており、その中には実に窮屈そうに十一面観音像が納められているのが見て取れるのであるが、これこそが十一面観音像の悲しい運命と哀話を今に伝える佛嵜山観音寺なのである。
この観音寺に納められていた十一面観音立像は、もともとは奈良時代の高僧行基の作と伝えられている。(行基さんはどこにでも出てくるなぁ。)
伝説によると、現在観音崎公園があるあたりの洞窟にはかつて大きな大蛇が住んでいた。この大蛇がまた乱暴もので、ときどき現れて暴れては漁民や里人を大いに困らせていたのだという。
天平13年(741年)、諸国を巡る廻国修行を続けていた高僧の行基は、この地にすむ大蛇の事を里人から聞かされて大いに同情し、さっそく洞窟へと出向いて大蛇を法力で説き伏せて調伏するや、その霊を鵜羽山権現として祀り、今後は村の守り神となるよう諭したのだという。
また、近くの走水神社には日本武尊(ヤマトタケル)とその妃である弟橘媛姫(オトタチバナヒメ)の伝説があり、荒れ狂う海を鎮めんとしてこの洞窟から海に身を投げた弟橘媛姫を十一面観世音菩薩として像に刻み、海上安全と人命守護の霊験あらたかとして大いに信仰を集めたのだという。
しかし、時は下って建保の乱(和田義盛の乱)が建保元年(1213年)に勃発すると、この観音像はどこかに持ち去られてしまい、行方知れずとなって長らく観音堂は観音様が不在であったという。
寛元2年(1244年)の夏に、走水沖で海底が煌々と光っているのが確認され、漁師たちが潜ってみると海底で観音像が沈んでいたまま光っているのが確認されたので、さっそく引き上げようとしたのだという。
しかし、この仏像が岩の割れ目に引っかかりなかなか取り出すこともできず、思い切り引っ張ったら右手の部分に傷がついてしまったので、今でもその海のあたりを「テスリ浜」と呼ぶのだという。
もともとは小さなお堂であったものが、天正19年(1591年)に佛嵜観音堂として三石の御朱印を賜り、慶長17年(1612年)に現在の逗子市沼間にある曹洞宗海宝院2世の僧「禅英」が中興して、いつしか船守観音と呼ばれて海上安全にご利益ありとして魚業関係者や海運関係者からあまねく崇敬されて、漁の合間に訪れる参拝者が常に絶えず、たいへんな賑わいようで一時は門前の海岸沿いにお茶屋さんと呼ばれた料亭まで出来たというのは、以前に紹介したとおりである。
しかし、明治13年、明治政府により観音崎に砲台が建設される計画が持ち上がると観音寺は移転を余儀なくされて、現在の場所に移らされたということである。
しばらくは海宝院の末寺としてあったが、昭和61年10月20日に出た大火により本尊もろとも灰燼に帰し、現在のような姿に縮小して再建され、現在の本尊はもとの本尊をできうる限り再現されたものだという。
海上安全の守護神として大いに信仰を集め、一時期は西国三十三観音札所を勧進したり、三浦三十三観音霊場の札所になったりもしたの観音寺であるが、今となってはすっかり小さなお堂になってしまい、訪れる人も少なく、まるで忘れ去られてしまったかのようであり、ここにも人々に翻弄された十一面観世音菩薩の栄枯盛衰がひしひしと感じられるのである。