観音崎公園の南側、鴨居小学校から海に出る道の途上に、うっそうとした木々が茂る丘があり、その中にひっそりと建つのが東光山無量寿院と号する西徳寺であり、その宗派は浄土宗鎮西派である。
この寺は鎌倉にある光明寺の末寺であり、開山は法誉順性であり、その創建は戦国時代末期の永祿元年(1558年)と古く、本尊は阿弥陀如来である。
この山門の脇には樹齢も数百年という見事なマキの木が聳え、この地の移り変わりを静かに見守ってきたそのお姿は悠久の歴史を今なお刻み続け、この木の下でじっと見上げていると、日常世界のしがらみがいかに小さく、つまらぬものであるかを思い知らされるのである。
また、この寺は和田地蔵の記事でも紹介した見所の多い寺である。
この寺の和田地蔵に参拝したあと、墓地へ続く急峻な山道を登っていくと、その山すそには無縁となった墓が整然と並べられ、その眼下には浦賀の人々の営みがあり、まるで諸仏が天上から下界を見下ろしているかのような錯覚を受ける。
また、その上には黒船来航に伴って召集され台場の建設を命じられた会津藩士の墓が並んでいるさまを見ることができる。
その会津藩士の墓に一礼し、さらに山の奥地へと足を踏み入れていくと、浦賀町郷土誌に「径三間余の松林に囲まる方二間」とある和田義盛の髭剃塚が今なお残され、こんもりとした土盛りには木々が生い茂り、ここにも悠久の歴史が息づいているかのようである。
これは高さ2メートル余り、径6メートル余りの円墳のような塚で、和田義盛主従が出陣に際して月代(さかやき→頭頂部。兜をかぶる際に剃った。この時の髪型が江戸時代まで続いている)を剃り、その剃刀と頭髪を埋めて戦勝を祈願したところであると言われている。
もともと、この山には上の台中学校という中学校があり平成23年(2011年)に廃校になってしまったが、その敷地を造成する際に中世の城跡に特有の柱穴が多数見つかったということから、この地も城砦であったのかも知れない。
いま、この髭剃塚の脇に立ち、はるかに望む浦賀の街を眺めるとき、かつては武士の鬨の声と旗のぼりのざわめきが響き渡り、また現代に至っては快活な中学生の声が聞こえていたであろう事が思い起こされる。
まだ上の台中学校があったころ、「いきものがかり」の歌「SAKURA」のMVで上の台中学校に咲き誇る満開の桜が映し出された。
いま、この上の台中学校は半ば廃墟となり、訪れる人も耐えて久しいが、桜だけは変わらず満開の花を咲かせ続け、今となってはただただ流れる時の流れの中に、時の流れの速さと人々の営みの移り変わりを見るようである。