観音崎公園の南側、鴨居小学校から海に出る道の途上に、うっそうとした木々が茂る丘があり、その中にひっそりと建つのが東光山無量寿院と号する西徳寺であり、その宗派は浄土宗鎮西派である。
この寺は鎌倉にある光明寺の末寺であり、開山は法誉順性であり、その創建は戦国時代末期の永祿元年(1558年)と古く、本尊は阿弥陀如来である。
この山門の脇には樹齢も数百年という見事なマキの木が聳え、この地の移り変わりを静かに見守ってきたそのお姿は悠久の歴史を今なお刻み続け、この木の下でじっと見上げていると、日常世界のしがらみがいかに小さく、つまらぬものであるかを思い知らされるのである。
この脇には通称和田地蔵と呼ばれる地蔵堂があり、もともとは路傍にあったものであるが、この地蔵尊にはこの地を治めた武将、和田義盛にまつわる不思議な伝説が残されている。
昔、この地蔵尊がまだ路傍にあったとき、そのあまりの美しさと造形美に魅せられた和田義盛は、地蔵の前に頭をたれて礼拝し、「この度の合戦にもし勝てるならば川上へ、そうでなければ川下へ流れてください」と祈願したのである。
その祈願をもとに、和田義盛はこの地蔵尊を川に沈めて主従ともにこの地蔵が流れる末を見つめていると、大きく重たい石仏にもかかわらずこの地蔵はぷかりと身を浮かせて、川上へと流れたのだという。
この一部始終を眺めていた和田義盛主従はすっかり感激し、早速この川の近くにお堂を建ててねんごろに祀ったということである。
その後、その川を和田川と呼ぶようになり、今でも観音崎通りに沿う形で鴨居港に注いでいる。
この地蔵は、いかに日照りの日が続こうとも、その半身が濡れたようになっているという不思議な話があり、腫れ物や百日咳などに霊験あらたかであるとして今なお信仰を集め、今なお真新しい花や頭巾が奉納されている。
いま、時は平成から令和へと変わって人々は科学万能の恩恵を享受しているが、その中にあっても人々の信仰は途絶えることなく連綿と続き、ここにも民間に身近に親しまれた地蔵菩薩の人気ぶりを見るようである。