わくり井戸のあるところから、初声保育園へと向かって小高い丘を上がっていくと、途中で和田家の住宅の片隅に簡素な冠木門が見えてきます。
この和田家のある所はもともと「五劫寺」という寺があったところです。
「五劫寺」という寺がどういうお寺であったかについて、江戸期に編纂された一大地域史「新編相模国風土紀稿」の三浦郡 衣笠庄 高圓坊村の項には
大井山と號す。大井は所在の小名なり。
浄土真宗 上宮田村 来福寺末。
本尊阿弥陀又地蔵を置く。
と伝えられています。
もともと、浄土真宗は阿弥陀仏を崇拝の対象としてきましたが、日本全国津々浦々の中には例外もあり、もともと地蔵菩薩を御本尊としていた寺が浄土真宗に改宗した場合などはさすがに御本尊さまではなくなるものの、お地蔵さま自体はそのまま残される場合もあるようです。
また、五劫寺縁起によれば、その歴史は古く天平元年(729)にまでさかのぼります。
当時、諸国を行脚されていた高僧行基、のちの行基菩薩がこの地を訪れ、延命地蔵菩薩を彫刻され、庵を建てて安置したのが始まりとされています。
ちなみに、行基は法相宗の人でした。今ではだいぶ勢力も衰えた法相宗ですが、今でもその教えは京都の薬師寺や興福寺で受け継がれています。
このことから、やはり五劫寺は後に他宗から浄土真宗へと改宗したようです。
かつて、三浦大介義明公の孫である和田義盛公が深く帰依した事により五劫寺は隆盛を極めました。
また、和田義盛の孫であった和田朝盛は、祖父や一族の菩提を弔うためにこの地に住みつづけ、五劫寺を中興し、祖父が帰依しつづけた延命地蔵像を守りつづけました。
和田朝盛は頭を丸めて高円坊と名を変えて現在の地名の由来となり、その次男は二世の高哲坊とした、と伝わっています。
和田朝盛の塚が現在でも近くに残されているのは、以前に紹介したとおりです。
この五劫寺には、昔から多くの信徒が五劫寺前の流れで水垢離を行い、身を清めてから参詣されたと言われており、現在でもこの川を精進川と云う所以となっているのだそうです。
五劫寺縁起には
寺は義盛の城郭の東にあたりて立、その敷地の東は森林叢々として松風鎮に吟じ、南は海浜船はたを並てかまびすし、西は平原渺々として遠く高山を向い、北は山また山をつづけ、其の嶺高く境内に山谷をかまえ、往昔は諸堂いらかを並べ建といえども、有名無実の敷地のみ残れり。併しいまの精舎の向にあたりて、塔の台と云う所あり。
と、往時の情景を今に伝えているのです。
いま、五劫寺のあった所には寺があったことを伝える看板や案内などは何もありませんが、現在も残る冠木門の奥にはわずかながら墓地が残されているのが見て取れます。
また、この五劫寺は残念ながら明治期に廃寺となっていますが、ここにお住まいの和田家の一族は、かつて五劫寺の住職を務められた家柄で、古くは高円坊を開拓した和田朝盛の子孫と伝えられています。
いま、秋の夕暮れが近づいている五劫寺あとの墓地を歩き、片隅に残された古い様式の六地蔵や観音像に向き合って手を合わせる時、その物言わぬお姿のが秘めた昔日の思い出がいまここに蘇るかのようで、かつてここにあった祠堂に参詣する人たちが連なり、精進川で水垢離を終えてれつをなしたその姿が目に浮かぶかのようです。
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