三浦半島を南北に縦断する三崎街道は、三浦市初声町の和田というところを通過します。
この和田という地名は、三浦一族の中でももっとも有名な頭領のひとり、三浦大介義明公の孫にあたる和田義盛にゆかりのあるところです。
その和田の里、三崎街道に面したところに、一段上へと登っていく簡素な階段が見えますが、その階段を登ると雑草が生い茂る空き地となっており、この場所が何であったのかを言い当てる事すら今は難しくなっています。
実は、ここにはかつてお寺がありました。
江戸後期に編纂された一大地域史料である「新編相模国風土記稿」の中の「三浦郡 衣笠庄 本和田村」の項に、「安楽寺」なる寺院に対する記述があり、それによれば
仏照山と号す 浄土宗 天養院末 和田義盛宅地鬼門の鎮護として建立するところなりと云伝ふ 本尊は薬師如来 行基作 長2尺7寸5分
とあります。
しかし、現在安楽寺の跡地とされる所にはお寺らしい建物はひとつもなく、ただ石仏が2体寂しげに並んで三崎街道を見つめ、その傍らにはもはや使うものが絶えて久しい手水鉢が転がっているだけの寂しいところとなっています。
地元でも特に著名で、誉れ高き武人であった和田義盛の館の裏鬼門を守る安楽寺であり、和田義盛主従は篤く帰依したと云いますが、このお寺はなぜ廃寺になってしまったのか。
ここにも、大東亜戦争の暗い影が見え隠れするのです。
時は大東亜戦争が激しさを増し、本土決戦の機運が高まる昭和18年(1943年)のことでした。
当時は三浦半島は全体が要塞化され、敵軍が上陸してきた時の「本土決戦」の際には首都東京を防衛する要塞地帯とされました。
三浦半島や相模湾沿岸地域、横浜市金沢区などには至る所にた洞窟陣地や砲台、特攻隊の陣地が築かれ、その痕跡が今もそこかしこに残されています。
たとえば、これは近くにある特攻隊の格納壕です。
特攻隊といえば爆弾を積んだ飛行機で敵艦に体当たりする神風特攻隊が有名ですが、こちらの特攻隊は爆薬を満載した潜水艇で敵艦に体当たりするというものでした。
当然、要塞の建設には大量の物資の運搬が必要となり、多くの道路や鉄道が整備されましたが、現在三浦半島を縦断する三崎街道もほとんど軍事用の道路として現在の形にまでなったようなものです。
三浦半島の要塞化を進めるために道路を拡張し、鉄道を通す(東京急行電鉄武山線=当時、京浜急行は東京急行電鉄に合併されていた。武山線はわずかに着工するも未完成のまま終わった)するという軍部の意向は絶対的なものでした。
そのため、いくら歴史のある寺院であろうといったん敷地が軍部の管理下に入れば逆らうわけにはいかず、名将和田義盛ゆかりの古刹、「仏照山 安楽寺」はここに廃寺となり解体されたのです。
いま、かつて寺があったとされる荒地には使う人がいなくなった手水鉢が空虚の中に転がり、ぽつんと残された2体の石仏は物言わず、三崎街道を行き来する車を眺めています。
和田義盛の時代から戦国時代、天下泰平の中に飢饉や天災を繰り返した江戸時代、明治の廃仏毀釈や昭和の大戦、そして廃寺へ。
この安楽寺が見守ってきた世の中に、どれだけのドラマが残されていたのかが、ただただ時の流れの中に思い出されてくるかのようです。
では、安楽寺が廃寺となり、「本尊は薬師如来 行基作 長2尺7寸5分」と伝えられた薬師如来さまはどこへ行ったのか。
そこについては次の記事で触れたいと思います。