神奈川県の海に沿って走る国道1号線は旧東海道であるが、その1号線から川匂神社入り口の交差点を入って山側に進んでいくと、道路が右側に急カーブをした奥にあるのが真言宗の無量山・雨宝院の西光寺である。
この寺は小田原市国府津にある宝金剛寺の末寺で、本尊は不動明王である。
この西光寺の門前の坂はもともと川匂切り通しといって、川匂の老若男女総出で切り開いた切り通しであり、江戸時代に川匂神社にお参りに行く人たちの重要な参拝路であった。
また、地域の人たちの生活道路としても重宝されていたが、昭和40年代までは道幅も細く、傾斜もきつい坂であったばかりか、木々が鬱蒼と茂って昼なお薄暗い道であったという。
それでも、山の斜面を這いつくばるようにして登るよりははるかに便利なことに変わりはなく、やがて広くなだらかに切り開かれて現在に至るのである。
この道の脇には、地域で「袖切り地蔵尊」と呼ばれて大切にされているお地蔵様の立像がお立ちになっており、その台座には寛政三年辛亥三月廿四日という日付とともに講中18名の寄進者の名が刻まれている。
寛政3年(1791年)といえば江戸幕府第11代将軍の徳川家斉公の治世で、全国で天明の大飢饉が広がり、多くの民衆が途端の苦しみを味わっていたころであり、寛政の改革、しいては「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵が盗賊「葵小僧」を捕縛した年でもある。
もともと、江戸時代には勾配がきつい坂には全国各地で「袖切り地蔵尊」というものを祀る風習があった。路傍の守護神として道行く人の旅行安全、近隣の人の家内安全に霊験あらたかとされて篤く信仰されたのであ李、全国に残る袖切坂などはその名残であろう。
袖切り地蔵尊というのは、東海道の茶屋の川匂神社一の鳥居でまずは拝礼し、薬師堂の薬師如来に参詣してから川匂神社を目指して歩いてきたものであった。
一の鳥居は現在は失われて久しいが、川匂神社入口の交差点の脇には現在も茶屋薬師堂が残されている。
当時はこの切り通しは起伏も激しく、もちろん舗装もされていないので晴れた日は小石に足を取られ、雨の日は足元がぬかるんで滑るといった大変な悪路であった。
そのために転倒する人が続出したが、大きな怪我もなく袖が切れただけだったのは地蔵菩薩の加護である、これからもますます道中気をつけよという戒めであるとして、その袖を切り取って地蔵尊に奉納するのが習わしであったとされる。
かつてこの道は多くの商店が並び、そのほとんどは一般の家庭となってしまっているものの、一部には「げたや」「たこや」「わたや」などの屋号が残されているという。
また、昭和40年代まではこの道にムシロを広げた地蔵講の人たちが装束を身に纏って一心に念仏を唱える風景が見られたというが、それもいまは耐えて久しいようである。
いま、時代は平成から令和へと変わって、さすがに袖を切って供える人はいないようであるが、かつてここは多くの旅人が往来し、道中に安寧あれと袖を供えては香華をたむけ、手を合わせたことであろう。
いま、この川匂の袖切り地蔵尊は往時と変わらぬ優しげな眼差しで道行く車を見守り、ここにも道行く人の安寧を、人知れずのうちに願い続けているかのようである。