みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

かつて民の信仰を集めた 横須賀大津の日切地蔵(横須賀市)

京浜急行京急大津駅から、駅前の細い通りを海に向かって歩いていくと、東側へ向かってカーブしきったところの細い路地を入っていくと、ほどなくして「日切地蔵尊」の立て看板が見え、そのわきに人がやっと一人通れるほどの小道が伸びている。


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この路地にいたる道は、かつては浦賀道という街道であった。

現在では閑静な住宅街の中の生活道路といった位置づけであるが、享保5年(1720年)に下田から浦賀奉行所が移され、寒村の獣道のようだったこの浦賀道は中心的な街道として発展したのである。

 

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当時は東海道を保土谷宿で分岐させ、現在の港南区金沢区を往還する「金澤みち」が整備されていたが山がちで通りづらかったので、現在の横浜市金沢区野島あたりから大津にかけえての海路も併せて利用された。

 

現在、大津の湊(みなと)がどのあたりにあったのかは分かってはいないのであるが、このため陸路を行く人が減り街道沿いの商売はあがったりで、困窮した商店主の訴えを受けて大津村からの旅人の乗船禁止の措置までとられるありさまだったという。

 

それにしたがって大津の村も大変に栄え、この浦賀道はたくさんの人や荷車を引いた馬、そして彼らを目当てとした物売りなどが集まったことであろう。

 

そんな浦賀道から少し入ったところの、路地の奥にひっそりと立ち続けては衆生の営みを見守り続けてきたのが、この日切地蔵尊なのである。

 

日切地蔵 (ひぎりじぞう)というものは、日本各地に存在する地蔵信仰の一形態で、「お地蔵様に縁がある」縁日と呼ばれる日に限って祈願すれば、たちまちのうちに願いが叶えられるとされてきた。

日限地蔵とも表記し、同じような例は横浜市港南区などにも残されている。

 

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日本における日切地蔵尊の信仰は、戦国時代までさかのぼる。

当時、現在の福島県戦国大名であった蘆名盛氏の夢枕へお告げがあり、それがきっかけとなった居城であった黒川城の堀から、3体の地蔵菩薩像が見つかった。

これは霊験あらたかであるとして、日限地蔵として現在の会津若松市にある西光寺に祀ったものが大変ご利益があったので、そこから全国へと派生していったのだという。

 

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この横須賀市大津の日切地蔵尊も、詳しい由来や伝説については資料がほとんど残っておらず不明な点も多いというが、かつては縁日にもなれば多くの人が集い、地蔵講を開いては念仏を捧げ、宴を催しては地蔵菩薩の像を車座に囲み語り合ったことであろうか。

 

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そして、この世の衆生の生きていくことへの苦しみ、不安、悲しみをすべて一心に引き受け、死後の世界に人間がおもむく六道(天上道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道)のすべての世界で亡者を救い極楽浄土へと導くと信仰された地蔵菩薩に、自らの死後の世界の幸福を託したのであろう。

 

この地蔵尊の傍らには、文政7年(1824年)の銘がある馬頭観世音も立ち、いつからここでこうしているのかすら分からないが、日切地蔵尊に寄り添うそのお姿は、人間に合わせて、まるで動物たちの霊も併せて慰めてきたかのようである。

 

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いま、この路地の奥で名もなき草たちに囲まれながら、ただ静寂の中で物言わずして立ち続ける日切地蔵尊と馬頭観世音の前にひざまづいて手を合わせるとき、かつて日にちを決めては多くの信者が集い、楽しそうに語り合ったであろう昔日の光景が、そくそくと思い出されてくるのである。