横浜市の環状4号線、栄区上郷あたりの山手学院入口の交差点から山手学院の方角へと登っていく道のあたりを、古老たちは「がんじ谷戸」と呼んでおり、時折車が通るもののほとんど通行人の姿を見ることがない、昼間でも寂しい旧道である。
「がんじ谷戸」の由来については、かつて「観世音谷戸」と呼ばれていたものが訛ったのであろうと栄区の民話の項には載っている。
それによれば、明治の初めごろまで、この谷をのぞむ山の中腹に板中山という観音堂があったという。板中山については詳しい記録は残っていないが、平安時代の末期に弘法大師の霊場として開かれ、石でつくった閻魔大王を土中に埋めて、その上に庵を結び観音様を収めたのが起こりであったという。
時代は流れて江戸時代になると、この観音堂は近くに今も残る光明寺の末寺となったと伝えられている。
光明寺は江戸時代には阿弥陀仏を本尊とする浄土真宗の寺院となっていたが、板中山が変わらず観音堂のままであったかは現在は知る由もない。
この板中山は光明寺の住職の隠居庵として使われ、光明寺の住職が年をとると板中山観音堂に移って隠居をなし、若い住職に光明寺をまかせる習わしであったという。
ここに住んでいた、ある老僧が大変可愛がっていた白い犬がいた。
この白い犬は大変賢く、毎日のように観音堂と光明寺を往復しては手紙や小さな荷物を届けたりしていたが、この犬は綺麗な白色をしたおとなしい犬で村人からも「シロ、シロ」と呼ばれて可愛がられていたという。
この老僧は、シロの持ってくる手紙やお菓子を楽しみにし、光明寺でもシロが板中山から運んでくる手紙を読んで、安心すると感じであったのだろう。
シロは本当に賢い犬であったことがうかがえる逸話である。
また、ある時には観音様を信仰する巡礼が時折訪れては、ご詠歌を唄い観音経をあげる姿が見られたという。
また、栄区の民話によれば平尾桃厳斉という勤皇の志士が住んで寺小屋を開き、近くの子らに読み書きを教えていたというが、その時の塾生の一人に鎌倉事件に出てくる間宮一がおり、ここにも歴史の糸がわずかにつながるのである。
今、通る人の少ない路地に立つとき、道を急ぐ車たちが砂ぼこりをあげて遠くからは学生たちが運動に精を出す掛け声が聞こえてきて往時を偲ぶよすがもないが、昔と変わらない畑のすみを駆け抜けていった真っ白い犬の後ろ姿が目に浮かぶようで、ここにもかつて秘められた歴史があったことをにわかに思い起こさせるのである。