横浜市の外周に近いところを走る流通のかなめ、環状4号線の栄区上郷のあたりに、浄土真宗本願寺派の古刹である梅澤山 仙福院 光明寺がある。
このお寺の歴史は古く、聖徳太子の側近だった秦河勝(新編相模国風土記稿では小野妹子とされている)が当地を巡幸したおり、梅林の中になにやら光る物を見つけたのでのぞいてみた所、それは聖徳太子像であった。
これは不思議な事もあるものだ、と早速これを安置して堂宇を創建し、梅沢山仙福寺と名をつけたのが始まりだという。
時代は流れて北条泰時の招きで浄土真宗の宗祖であった親鸞上人が鎌倉に滞在したおり、当寺の52世住職であった了惠が親鸞上人に帰依したために、浄土真宗の寺院に改めて仙福院と改号したのであるという。
その後、戦国時代には浄土真宗は武田信玄に通じているとされてこの地を治めた北条氏から厳しい弾圧を受けるも、当寺は仮に禅宗の寺院に改めて住職は江戸に逃れ、北条氏が滅んだ後に浄土真宗に戻したのである。
この光明寺の門前、老松の根元には大きな力石が残されている。
脇の説明版によれば「上郷で生まれ育った人々にはなっかしい思い出のある石である」とされているが、これは古くから村人に親しまれてきたという上郷の力石の、3個のうちひとつとされている。
かつての若者は力比べの余興として、また身体の鍛錬としてこのような力石を担ぎ上げたというが、その重さは130キロにも及ぶというから驚きである。
思えば、今とは違ってなんでも手作業、どこへ行くにも歩いて行った時代である。
畑を耕すのに耕運機はなく、石垣を積むのにクレーンもなく、京都に行くにも新幹線はない。すべて自らの身体が頼りであった。
いま、みうけんは自らの子供を抱え上げるのですら、重いなと感じることがある。
これを、自らの老いと子供の成長というだけで片付けるのは早計というものであろう。
このような昔の力石は現在でも全国に残されており、当ブログでも過去に別の力石を紹介したことがあるが、現代の若者の姿を見て、この力石を持ち上げていた昔の人はどう思うのか。
すっかり怠けてしまった現代人、便利さと科学の力にうぬぼれて自然や神仏に対する畏敬と感謝を忘れてしまった現代人の姿とふがいなさ。
この、触れるだけで持ち上げる気にもなれない力石を撫でながら、自らの力不足と便利さに慣らされた頼りなさを自責する1日であった。