横浜市を周回する環状2号線の岸根交差点から、東側の岸根公園にかけての一帯を岸根町と呼んでいるが、このあたりの老人会や盆踊りでうたわれる「岸根音頭」には、つぎのような一節がある。
〽ハァ~ヨイホ 岸の根 琵琶橋 武蔵の名所
むかし琵琶法師 むかし琵琶法師 流れも歌う...
ここに出てくる琵琶橋とは、現在の岸根バス停のすぐ近くにあった小川にかかる小さな橋で、かつては琵琶の木で作られていたから琵琶橋という名前が付いたという事であるが、その他にも琵琶法師にまつわるいくつかの伝説が残されている。
むかし、ある琵琶法師が諸国を巡る旅をしていた時、たまたまこの橋にさしかかった。
しかし、当時の橋というのは今と違って丸太を渡しただけのようなもので、目がまったく見えない琵琶法師にとっては渡るのは大変な事であり、二の足を踏んでいた。
それを見ていた村の若者が、「この橋が何の木でできているか当ててみよ。もし当てたら渡してやろう」とからかってきたのである。
琵琶法師は、持っていた杖で橋を何度かたたくと、「この橋は琵琶の木でできていますな」 と答えた。
目が見えていたって、ただの丸太となった橋が何の木でできているかを当てるのは難しい事である。それを難なく答えたので若者はすっかり恐れ入って、この琵琶法師の手を取り丁重に渡してやったので琵琶橋という名が付いたという。
また、やはり目の見えない琵琶法師がこの橋を渡ろうとした。
しかし、この時は他に誰もいなかったので一人で渡るしかなく、足を踏み外して川に落ちてしまった。その橋の上には琵琶だけが残されたので、琵琶橋と呼ぶようになった、という言い伝えもある。
また、やはり琵琶法師が旅の途中でこの橋のたもとで休んでいた。
川べりに座った琵琶法師は、持っていた琵琶を鳴らしていたがその音を聞きつけて強盗がやって来ては、有り金を全部おいていけと琵琶法師に迫るのであった。
琵琶法師は何も金目のものは持っていないが、どうか命だけはと命乞いをしたものの、強盗も引かないので琵琶法師も覚悟を決め、琵琶を振り回して抵抗したのである。
最初は驚いた強盗であったが、目もみえないくせに生意気であると怒った強盗は無慈悲にもこの琵琶法師を琵琶ごと斬って川の中へ落としてしまった。
その日から、川の底からは琵琶をかき鳴らすような、悲し気で寂しい音が聞こえるようになったという。
この辺りをねぐらにしていた盗賊は、この音に恐れをなしてどこかへ逃げて行ってしまったが、その後も真夜中になると琵琶の音がどこからか聞こえ、気味悪がって近寄る人はなかったという。
これらは港北百話や横浜の民話などの郷土資料に見ることが出来る逸話であるが、他にも源頼朝がここで琵琶法師に一曲弾かせたという話、ここの橋のところに琵琶の大木があって旅人たちが実をもいで食べたという話などが残されており、実のところはっきりとした由来がどれであるのかはわかっていないのだという。
この琵琶橋がかかっていた川は、かつて根川という名前の農業用水であった。
鳥山川から分かれて太尾のほうまで至る農業用水として百姓の命をささえた大切な川で、また岸根村と篠原村の境でもあったから、その水をもとめて両村の間でいさかいも絶えなかったという。
このように、当時この辺りに生きた人たちにとっては無くてはならない川と橋であったが、現在はすっかり暗渠になって川の面影はなくなり、わずかに残されたさび付いた看板だけが、かつてここに川が流れていたことを偲ばせているのである。
この琵琶橋は、昭和の頃までは石の棒が3本並べられたものであったが、その前にあった橋は枇杷の丸太を並べたものだったという。
今となっては川もなくなり、橋もなくなって、どこにでもあるようなアスファルト舗装の道になっているが、このような一見してなんの変哲もないようなところにも、かつての人々の暮らしぶりを如実に伝える民話が残されているという事が、実に面白いと思うのである。