神奈川県の海に沿って走る国道1号線は旧東海道であるが、その1号線から川匂神社入り口の交差点を入って山側に進んでいくと、道路が右側に急カーブをした奥にあるのが真言宗の無量山・雨宝院の西光寺である。
この寺は小田原市国府津にある宝金剛寺の末寺で、本尊は不動明王である。
この西光寺の門前には蓮華座に座ったままの地蔵菩薩坐像が祭られており、これは地域の方々や檀家の方々からは「子育延命地蔵尊」と呼ばれて大切にされているもので、その歴史は今から220年ほど前、寛政9年(1797年)の江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉公の時代にまでさかのぼる。
このころ、度重なる大津波と疫病が全国を襲い、多くの罪なき子供たちがその命を落としていった。
特に疫病にあっては病に苦しむ我が子を小舟に乗せて海に流し、または海に隔離するしか当時はなす術もなく、遠く離れた海の上で、看取るものもなく最愛の親からも引き離されて死んでいく子供たちと、ただ見送るしかない親たちの無念と悲しみはいかばかりであったろう。
これを偲んだ押切の集落の人たちは、せめてもの霊の慰めと、これから生きていく子供たちの延命と厄除けを願ってこの地蔵を建立したのだと言われている。
天下泰平とうたわれた江戸時代、テレビの時代劇では皆が綺麗な服を着て平和な暮らしを享受しているように見えるが、その生きざまは決して楽なものではなかった。
今のように農薬も天気予報もなかった時代、ひんぱんに虫害や暴風がおきては作物は被害を受け、沖に出た漁船は戻ることはなく、そして多くの子供たちが病や栄養失調で命を落としていったことが、江戸時代から多く残された「童子・童女」という戒名をいただいた墓石を見ているとよく伝わってくる。
そのような時代、可愛いだけではなく将来の働き手としても期待されるべき子供たちを守るには、神仏にすがるところが大きかったのも事実であった。
そのため、全国にこのような子育て延命地蔵が残されており、これもそのひとつであろう。
いま、この苔むした物言わぬ地蔵に向き合うとき、その固く結ばれた唇からは決して子供たちを不幸にさせぬとの信念がにわかに伝わってくるようである。