横浜と鎌倉を結ぶ「鎌倉街道」と、横浜市内をぐるりと内周する「環状2号線」が交差する日野立体交差点は、横浜市南部における交通の要衝であり、日々たくさんの車が砂埃をあげながら往来していく賑やかなところです。
その日野立体交差点の脇には日蓮宗寺院である延宝山 唱導寺というお寺があります。
このお寺自体は江戸時代中期に現在の茅ヶ崎市浜之郷に作られた唱導庵(しょうどうあん)という庵がはじめであり、昭和30年に現在の地に移転してきたものです。
このお寺は「昭和の歌姫」とうたわれた故美空ひばりさんの菩提寺でもあるそうですが、その唱導寺の伽藍へと昇っていく狭い階段の脇に、今なお鎌倉街道を見守りつづける地蔵尊の姿を見つけました。
脇に掲げられていた由来の案内板によれば、このお地蔵さまは日野六道地蔵と呼ばれているものの、正確な建立年代は分かっていないそうです。
言い伝えによれば、かつてこの近辺で疫病が流行したとき、その疫病が早く収まるようにとの願いを込めて里人たちが建立したものだと伝えられています。
その一体一体には別々の建立主の名が刻まれて今なお残されており、この疫病鎮護のお地蔵さまが時代を経るにつれて、次第に無病息災や子供たちの身体健全を守る子育て地蔵尊と変化して、今に至っているそうです。
また、左端にお立ちになっているひときわ大きな地蔵尊の石像は、ただの地蔵菩薩ではなく地蔵尊型の庚申塔ということです。
ふつうは庚申塔というのは、青面金剛像であるか角石に「庚申塔」などの文字を陰刻しただけのものが多いので、このような地蔵尊型というのは実に珍しいと思います。
この庚申塔には、はっきりと「延宝八年仲冬上旬」と陰刻されており、庚申の年にあたることから庚申の文字も読み取れます。
これは西暦にして1680年、ちょうど江戸幕府の第4代将軍・徳川家綱公が亡くなって第5代将軍となる徳川綱吉公へと治世が変わった年の、十二月はじめに建立された事となります。
この庚申信仰は過去にもたびたび取り上げていますが、人間の体内に住むと信じられていた「三尸(さんし)の虫」が干支の「庚申」(かのえさる)の日の晩、人間の体から抜け出しては人間の悪事を閻魔大王に告げ口に行くと信じられていたことから、三尸の虫が体から出られないように庚申の日は夜通し起きている決まりがありました。
その集まりがいわゆる「庚申講」であり、無事に朝まで起きていた記念、強いて言うならば極楽浄土への道すじを保証できた記念として建てられたのが、今なお各地に数多く残されている庚申塔であるとされているのです。
この鎌倉街道は昔も今も主要な街道であったわけですが、この地にあって数百年にもわたり多くの人たちの往来を見守り続け、そして人々が健やかに暮らせるように、死後も極楽浄土へと行き安楽な生活が送られるように、と多くの希望と願いを込めて、この地蔵尊たちは建立されたことでしょう。
いま、交通の要は牛馬や徒歩から車へと変わりました。
数えきれないほどの車やトラックが砂埃をあげながらこのお地蔵さまの前を通過していきますが、このお地蔵さまの前で止まって手を合わせるドライバーを見かけることはほぼありません。
それでも、この物言わぬお地蔵さまは、我々が知ろうと知るまいと、この道を通る人たちを大慈大悲の心で見守り続け、人々に安寧の生活あれと優しい微笑みを投げかけてくださっているのです。