ずいぶん前になりますが、三浦市の下宮田というところにあったとされる虚無僧寺の跡地について言及したことがあります。
堂宇はすっかり失われ、今となっては数基のお墓が埋もれつつあるのみのところです。
このお寺について、詳しくは下記の記事をご覧いただくとして。
上記の記事から7年も経過した2026年、下宮田の里を原付で走っていました。
うーん、いいですねぇ。この雰囲気大好きです。

広々とした畑の中、どこまでも農道。これぞ三浦の原風景。
さて、坂を下っていくことしばし。谷戸の奥へと向かって行きます。

谷戸に入ると、そのあたりがお寺があったとされる近くになります。
道からヤブに分け入って10メートルくらいのところに、ひっそりとお墓が並んでいるのが分かります。
これが、みうけんの敬愛する、郷土史研究家・松浦豊先生の上梓された「三浦半島の史跡と伝説」に出てくる、下宮田の虚無僧寺の跡地とされるところです。

このお寺は史料にも
一、御朱印無御座候
一、除地無御座候
一、縁起並由緒無御座候
一、山号無御座候
一、末寺等無御座候
とされている事から、そこまで大きなお寺ではありませんでした。
建物 四間×三間半とあることから、面積も現在の2DKくらいでしょう。
「柳山圓水庵主」文化七年
さて、このお墓は「柳山圓水庵主」さんと陰刻されています。文化七年 没。
文化七年は1810年。第十代将軍・徳川家斉公のころです。
前述した「三浦半島の史跡と伝説」によれば、これが虚無僧のお墓である、と言われています。
確かに「庵主」とありますが、これをもって虚無僧であったかどうかは・・・・・・はて。

「釋」
「道樹信士」明和⬜︎年
「妙樹信女」同年
これは笠をかぶった唯一のお墓でご夫婦のものでしょう。史料などでの写真でも中心的な存在となっています。
明和年間は1764〜1772年、第十代将軍・徳川家治公のころ。
「釋」は浄土真宗でよく使う「お釈迦さまの弟子ですよ」という事ですが、浄土真宗では「信士」「信女」は使いませんから、はて。
今の常識を300年前のお墓に当てはめるのも無粋という事でしょうか。

「釋 光遵童女 霊位」享保二年。
享保二年は1717年、第八代将軍・徳川吉宗公のころ。
「童女」ということから子供の女性だったことがわかります。

「釈 知玄童女 霊位」宝暦八年。
宝暦八年は1758年、第九代将軍・徳川家重公のころ。

「釋」
「道専」宝暦十二年
「妙誓」明和九年
「不退位」
宝暦十二年は1762年。第十代将軍・徳川家治公のころ。
明和九年は1772年。おなじく第十代将軍・徳川家治公のころ。
「不退位」とはより仏道に近い人が、よく使った戒名と思います。一度志した仏の道から外れません、ということでしょう。
浄土真宗では使わないとされていますから、やはり浄土真宗ではないのでしょうか。

「妙薫信女」享保十四年
右手の墓石は上の写真のものと同じです。
享保十四年は1729年、第八代将軍・徳川吉宗公のころ。

史料では、広々としたところに多くのお墓にポツン、ポツンと残されている写真が載っています。
しかし、現在では大きな倒木が倒れ込んでしまっており、見る影もありません。
これはなんとかしてあげたいのですが、自分の所有地ではないのでどうにもできません。

この時は、あまりにもヤブ蚊が多くて読経もそこそこに退散してきました。
お墓参りを終えておなかもすいたので、三崎に出てマグロのホホ肉定食をいただきました。
これは実においしかったですが、ご飯の盛りがすごすぎて完食するのが大変でした。

◆◇◆後記◆◇◆
地元の方に教えていただきましたが、この場所は三浦縦貫道の建設予定地に含まれているそうです。
そのうち歴史の波にかき消されていってしまうかも知れません。悲しいことです。
それでも、ここに間違いなく生きた人たちの記憶が、今でも残されているということに一抹の感慨深さを感じます。
【みうけん本 いよいよ完成!】
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