みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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皇室の巡幸に殉職した 義勇奉公の消防手(三浦市)

人気の少ない三戸浜に沿って原付を走らせると、そこに穏やかに広がる砂浜と、雄渾なる相模灘の向こうには富士山が見えてきます。

富士山の頂上にはすっかり雪が積もって、もうすぐ冬という装いが感じられます。

 

さて、この三戸浜から海岸沿いの集落に入ってすぐのところに、浄土真宗西本願寺派の寺院である、寂静山 宝徳寺が見えてきます。

ご本尊様に阿弥陀如来をいただくこのお寺は、もとは戦国時代ごろに了善上人が開山した天台宗の寺院でしたが、すぐに浄土真宗に改宗したとされています。

 

それから脈々と系譜を受け継いできましたが、応仁年間(1467年~1469年)に大火に見舞われて焼失し、古くから保存されてきた由緒書きや寺宝をことごとく失ったものの、今なおここ上地区にて伽藍を保ち、里の人たちに崇敬されているのです。

  

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さて、この宝徳寺の入口を入ると墓地が広がっており、その奥に本堂があります。

お寺の入り口を入ってすぐ右側に、道路を背にした大きな石碑が立っているのが分かります。

 

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一番上には「義勇奉公」と陰刻され、その下には「三上惣治郎君表忠碑」という題と、説明文が記載されているのが分かりますが、そこには

 

君ハ三上長吉氏ノ長子ニシテ 明治三十年五月八日 本村三戸二三三六番地ニ生ル 資性明敏ニシテ 忠実篤厚 兼テ義勇ノ精神ニ富ム 夙ニ初声消防組消防手トシテ 火災警防ノ重任ヲ帯ヒ 十有七年良ク其任ヲ全ウシ 昭和四年八月十八日午後三時五十分 下宮田大原地先ニ於テ 遂ニ其ノ職ニ殉ズ 洵ニ稀有ノ善行ニシテ 世ノ模範トスルニ足ル 仍テ其功績ト義烈ノ行為ヲ 後毘ニ伝ヘンガ為ニ 田中初声消防組頭 長谷川三崎消防頭 其他有志ト相諮リ 茲ニ本碑ヲ建設ス

昭和五年十月十八日 発起人総代神奈川県消防協会

 

とあります。

現代語訳に直せば、

 

 三上惣治郎君は三上長吉氏の長男で、明治30年5月8日、本村三戸2336番地に生まれた。

 

資性明敏(しせいめいびん=生まれつき頭がよく回転が速い)で忠実篤厚(ちゅうじつとっこう=忠義にあつく人情にあつく)、兼ねてから正義感と勇気に富んでいた。

 

初声消防組の消防手として、火災や防災の任務につきその責任は重かったが、17年にわたってよく任務を全うしていた。

 

昭和4年8月18日午後3時50分、下宮田大原地先において、ついに殉職したが稀有なる善行であり世の模範とするに足りている。

 

よって、その功績と義の行為を後毘(こうび=のちのちに生きる人たち)に伝えんがために、田中初声消防組頭、長谷川三崎消防頭、その他の有志と協力して本碑を建設する。

 

という感じでしょうか。

戦前の人というのは、難しい言葉を使うものですね。

 

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いや、どちらかというと同じ日本人でありながら、現代に生きる我々の日本語能力が格段に下がったのかもしれません。

 

電車の中でも、ほんの20年前まで多くの人が新聞を開き、文庫本を開いて活字に触れていたように思いますが、現代ではスマホのゲームに取って代わられています。

これでは、日本人の語学力が衰えるのも無理はないでしょう。

 

この、高さ2メートルあまり、幅80センチほどの碑は、立派な溶岩の台座の上に据えられて、碑の裏面にも

 

 副会長 小暮藤三郎

 横須賀組頭 小暮藤三郎

 三崎組頭 長谷川嘉兵衛

 初声村長 河田伸三郎

 同組頭 田中兵三郎

 同副組頭 山本泰次郎

 同 長島次郎吉

 同 小頭一同

 神奈川県消防協会 三崎支部

 

という文字が読み取れます。

 

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この三上惣治郎さんが亡くなられた昭和4年8月18日というのは、天皇陛下が油壷におこしになった時と一致しますが、その警備をしていて殉職したという事です。

 

三戸の地には「御用邸」を建造する計画もあり、そのために三戸には「御用邸道路」まで建設されたときで、自然と皇室に対する関心も高かったのでしょう。

 

今とは違って、皇室に対する崇敬がずっとずっと篤かった時代です。

皇室のために殉職されたとすれば、それが村の大きな誇りとなった時代だったのでしょう。

現在はすっかりと時代も変わってしまいましたが、世界に類まれなき歴史を誇る日本の皇室は、もう少し国民から崇敬されても良いのではないかと思います。

 

いま、この「義勇奉公」の碑の前にひざまづいて香華をたむけ、そっと手を合わせるとき、かつてこの三浦の地で使命に準じた名もなき消防手の功績がにわかに思い出されてくるようで、その家族の悲しみにも思いを馳せるとき、自然と熱い涙が頬を伝うのです。

 

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