国道16号線の「安浦二丁目」 交差点から西へ進むと、ほどなくして京浜急行の線路をくぐりますが、その脇に昔ながらの立派な長屋門が残されているのが見えます。
これは三浦一族の子孫と言われている永嶋家の長屋門です。
永嶋家は三浦一族が没落した後は小田原北条氏に召し抱えられ、代々にわたって浜代官をつとめました。
北条氏が滅ぼされて江戸時代にはいると、そのまま名主として田戸に屋敷をかまえ、「庄兵衛」という名を代々受け継ぎました。
このため、永嶋家は「田戸庄」と呼ばれ、長い間地域で親しまれてきたのです。
この表門は左右に長い棟をもち、用人や奉公人を住まわせた「長屋造り」と呼ばれるもので、もともと華麗な朱塗りであったことから赤門と呼ばれていました。
この赤門は間口八間(約14.4メートル)、奥行二間(3.6メートル)の木造瓦葺きで、中央に門を構えてその両側は2階建ての構造となっているそうです。
今も残る中央の門扉は江戸時代に造られたケヤキ造りという貴重なものだそうですが、周囲の部分は修復を繰り返して現在の姿になっています。
この門についてはいろいろな伝承が残されています。
明治時代の廃仏毀釈運動のおり、鎌倉の鶴岡八幡宮寺の赤門が浦賀を経てここに移されたのだとも、大津陣屋が閉鎖になった時に、正門を解体して永嶋家へ払いさげられたとも伝承されています。
明治27年、東京精行社が出版した銅版画「日本 博覧図 第拾編」には「永島庄平衛邸宅」という版画が納められており、それによればかつてはこの屋敷は現在地から京浜急行の線路のある山側にかけて、十数棟の建物や庭園がつくられていたことが記録されています。
そのころの母屋は茅葺の平屋づくりで、軒先のみが瓦葺となっており、18畳の広間を 中心に20近い数の部屋があり、屋内外に3つの井戸があるほどの広さを誇っていたといいます。
昭和4年には島崎藤村がこの永嶋家を訪れ、そこで見聞きした光景が永嶋家は山上家として、島崎藤村家は青山家として「夜明け前」にも出てきます。
かつてはここは街道の辻でもあり、赤門にむかって右手には文久2年(1862年)の陰刻が残る道しるべが残されています。
その表面には、今なお「公郷村之內大田津」「右大津・浦賀道」「左横須賀・金沢道」と刻まれているのが読み取れ、このあたりが街道の要所であったことがわかります。
明治30年~昭和のはじめごろにはこの赤門のあたりには浦賀行きの乗合馬車の駅もあり、通称「立場」と呼ばれていたところです。
約20分ごとに発車したといいますから、それなりの需要もあったのでしょう。
今では屋敷の敷地も前ほどではなくなり、乗合馬車もなくなってすっかり静かな住宅街になっており、かつての面影はありません。
いま、赤門の前に立って茶色く色あせた土壁を見上げていると、かつてこの場所を行き来した人たちの息遣いが今なお鮮明に聞こえてくるかのようです。
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