みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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かつての城と処刑場 北新羽オシカリバの伝説(横浜市港北区)

30年ほど前に地下鉄が開通してから、発展の度合いが日に日に加速している新羽町の近辺であるが、北新羽と呼ばれるあたりはまだ自然も多く、かつての原風景をそのまま留めているかのような道を愛車シグナスXで駆け上っていく。

 

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この細い道を登りきると、東京電力の港北変電所がある。

現在は広大な敷地に変電設備が並び、立ち入ることはできなくなっているが、この辺り一帯は昔から台地のようになっていて地元の人たちは古くから城山(じょうやま)と呼び、すぐ脇には「馬場」という字も残り、かつてここに城があったと言い伝えている。

 

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特に、この台地には小さな窪地があって常に水が湧いていた。

この薄暗い窪地を土地の人は「オシカリバ」「シカリバ」「オヒカリバ」「ヒカリバ」と呼んでいたが、現在は埋め立てられた上に変電所が出来てしまったので、その痕跡は見受けられない。

 

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地域資料「新羽史」によれば、特に新羽に古くから住む人たちはここを「オシカリバ」と呼び「お叱り場」と字をあて、比較的若い人達は処刑場の跡で怪しげな光が出るという「オヒカリバ」といい「お光り場」だとする。

その一方で「港北百話」では「光場」と説明されており、もともとは「お叱り場」といって処刑場のようなものがあったが、のちに「光場」に転化したものであろう。

 

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この「オシカリバ」があった台地の脇には、現在でも古くから続く家々があり、それぞれ

 「デエボウ」

 「城山」(ジョウヤマ)→吉田姓、通称「城山三軒」のうちの一軒

 「中城山」(ナカジョウヤマ)→吉田姓、通称「城山三軒」のうちの一軒

 「奥城山」(オキジョウヤマ)→石井姓、通称「城山三軒」のうちの一軒

が残されているが、そのうちの一軒「奥城山」の石井家では「500年程前、ここに横地監物が城か屋敷を構えていたが、太田道灌に小机城が攻められた時、ここも攻められ 壊された」と言い伝えられている、と「新羽史」にはある。

 

このころ横地監物が勧請したのが北新羽杉山神社であった。

この横地監物は以前にも紹介したように、この新羽あたりを治めていた人物であった。

 

 

この北新羽杉山神社には、由緒書の写しが残されている。

 

この写しは戦国時代から江戸時代へと移る慶長元年(1596年)に当時杉山神社別当であった蓮華寺の三世住職、法印尊壽による写書であるとの記載がある。

それによれば、応永2年(1395年)、大氷雨が降り作物が潰滅したとき、横地監物の夢に大和国三輪の神が現れ、我を高所に祠るべしと告げた。

さっそく横地監物は本殿を建て、杉山神社として祠ったところ、応永5年(1408年)の雹害で大熊村が損害を被ったときも新羽村はまぬがれた、とある。

 

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横治監物は小机城の中にも祀られていた白山社を北新羽の城山にも祀った。

現在は北新羽杉山神社の合祀殿の右端に移されているものの、かつては「デエボウ」の裏山、城山から杉山神社を含む丘の上にあったと言われているので、もしこのあたりが城であれば縄張りの中に含まれるであろう。

 

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一部では白山社は被差別部落を象徴するとされる向きもあるが、弁財天が農耕の水神から芸能の神へと変化していったように、白山社も地域によっていろいろな性格をもち、このあたりでは特に戦の守護神としても祀られていたというから、この場合もまさにそれであろう。

 

この城の跡をおりて現在の蓮華寺あたりへ出ると、このあたりは真間戸と呼ばれている。この寺の近くの西山家はもともと屋号が「マカンド」で、かつては名主であったという。

その西山家では、城山の口碑が伝えられており「城山は鎌倉時代の砦で、江戸城と鎌倉 を結ぶ連絡路の中継点だった。第三京浜横の尾根道は鎌倉への連絡路であった。そこの通称「ハラ」という所は古戦場という。太田道灌の頃、デエボウの横の現地蔵堂の場所で城主が切腹した」と言い伝えられている。

 

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今となっては窪地は埋め立てられて一般人は入れぬ変電設備となり、杉山神社地蔵堂のところにもそのような説明は一切なく、当時をしのぶようなものは何一つ残されていないが、かつてのオシカリバと城があったという言い伝えは今なお残され、この地を受け継ぐ人たちによって守り継がれているのである。

 

 

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