みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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哀れな稲荷の秘話と 忘れ去られし遊郭の記憶(相模原市中央区)

神奈川県を東西に分ける相模川の上流、相模原市愛川町を結ぶ高田橋のあたりは初夏になれば数多くの鯉のぼりで飾られて、また週末ともなれば多くの親子連れや犬の散歩をしている人々でにぎわい、大変な人出である。

 
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その高田橋のふもと、少しだけ住宅地に入ったところにひときわ大きく開けたところがあり、そこにはひっそりとした水郷田名観光協会の建物があるが、その脇をよく見れば、白子稲荷神社と大鷲神社のちんまりとした祠が建っているのが目に見えるのである。 

 

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この小さな2社のお社は、向かって左側が白子稲荷社、右側が大鷲神社である。

この2つの神社は、まったく同じ地にありながら、そして誰もが見落としてしまいそうな小さな神社でありながら、それぞれの異なるドラマを今なお秘めている神社なのである事を知る人は、今どれほどいるだろうか。


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向かって左の白子稲荷社は、創建は安政年間と伝えられている。

安政年間は泰平を誇った江戸時代も末期に近づいたころで、世間ではペリー来航を皮切りに日米和親条約を締結、日本中で大地震が頻発し、江戸幕府崩壊のきっかけといわれる安政の大獄桜田門外の変が起きるなど激動の時代である。

 

明治時代、内務省通達で一村一社の方針が全国に下地されるという愚かな国策により、この白子稲荷も当時は田名村の村内であったために田名八幡宮に合祀され、一度はこの地から姿を消したのである。

 

しかし、それから夜を迎えるたびにどこからか狐の悲しそうな鳴き声が聞こえるようになったという。その鳴き声はあまりに寂しく、悲しげなもので、それを聞いた村人たちは、これは不吉なことがおきる前兆であろうと恐れおののく日々であった。

 

そのうち、赤ん坊が頻繁にひきつけを起したり、子供が狐のしぐさをするようになり、中には狐に化かされたのかお風呂と間違えて肥だめに浸かるものまであらわれて、村人たちは大きな恐れにおののく日々が続いていた。

極め付けには白子稲荷の幟旗を担いだ狐が、何ともなんとも哀れな姿をあらわに、泣きながら歩いているのを見たという人まで出る始末であった。

 

これは、決して放置できぬと村民と氏子が一体となり運動を巻き起こし、この白子稲荷をまたもとの場所に移しなおしたのが、いまある白子稲荷社であるという。

近年までは近隣の13軒の氏子たちが毎年2月の2の午の日に集まっては稲荷講を催し、藁づとに赤飯を入れて供え、神楽を奉納する光景が見られたという事である。
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また、向かって右の大鷲神社は、「おおとりじんじゃ」と読ませる。

大鷲神社というものは、かつて吉原の廓の中に祀られていた事から、とりわけ江戸近郊では遊郭に縁が深く、横浜市大鷲神社なども好例である。

ここ田名は一見して何もない農村地帯であったかのように見えるが、特にこの近辺は久所(ぐぞ)と呼ばれ、大山詣の宿場町から花街へと発展していった経緯を持っているのである。

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この近辺では9軒ほどの料亭があり、多くの女性が客と一夜を共にしたというし、一時期は酉の市が開かれては町じゅうに提灯が煌き、大きな熊手が飛ぶように売られていたという。

また、近くにある不思議な伝説を残す「狸菩薩」のお祭りともあわせて大変な賑わいであったというが、それも昔の事となってしまったようである。

 

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いま、その花街のあたりも完全に住宅街となってしまい、そのような歴史があったとはにわかに信じがたいほどの平和な町並みであるが、昭和のはじめごろまでは多くの旅館や料亭が軒を連ねて、東京あたりから相模川に釣りにやってきた客を相手にしていたのだという。

 

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いま、この二つ小さな祠の前に立って手を合わせるとき、決して多くは語られず、案内の看板すら設置されない忘れ去られたかのような昔話がそくそくと思い出され、かつてここに生きてきた信心深い人々の営みと、この地に根付いて民衆の生活を見守ってきた神々の息遣いがいまなお蘇ってくるかのようである。

 

 

 

 

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