みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのJog・CE50。時速30キロで見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

住吉城の城跡と 悲運の武将 三浦道香の墓(逗子市)

古都鎌倉の中心部を南北に貫いている鶴岡八幡宮の段葛を南へ進んでいくと、鎌倉の象徴ともいえる材木座海岸に出る。その海岸沿いの道を逗子方面へ向かうと、鎌倉と逗子の境界の住吉隧道に入る手前に、脇にそれる細い路地が走っており、その奥には閑静な住宅街と逗子マリーナの豪壮なマンションが並んでいるのである。

 

浄土宗正覚寺は、その山沿いにへばりつくようにして細い階段の上に建立されており、名を住吉山 悟眞院と称する古刹である。


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この階段を上がって行くと脇に念仏供養塔を眺め、いつのものかも判然としない五輪塔が静かにたたずんでいるさまを見る事が出来る。


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現在は本堂も綺麗に建て替えられているが、少し前までは茅葺屋根の小さな寺であり、訪れる人も少ない実に静かなお寺であった。

今でもその静寂さはそのままに、山に抱かれるようにして人々の生活を見守っているのである。


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この寺の背後の山は、三浦一族の拠点のひとつであった住吉城があったところである。

住吉城は、三浦道寸義同の弟であった三浦道香の居城であった。この城は急峻な断崖と海に守られた、実に攻めやすく守りやすい城であり、鎌倉三名城の一つに数えられるほどであったという。

 

現在、正覚寺の墓地の裏は切り立った崖となっており、もしかすると住吉城があった時に、防御の役割を果たしていた崖なのかもしれない。


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この墓地の狭い通路をくぐり抜けるようにして歩いて行くと、苔むして古びた階段の上に小さな神社があり、これを住吉神社という。


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神社といっても、本殿よりも物置のほうが広いくらいの小さな神社であり、ずいぶんと訪れる人も少ないようで境内は荒れており、落ち葉はつもり、至る所に蜘蛛の巣がかかっているので、蜘蛛の巣が苦手な方は注意が必要である。


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この神社のある一角も、城の一部として機能したのであろうか。

隅にはやぐらとも見て取れるような崖面のくぼみを認める事が出来る。かつて、このくぼみはどのような使い方がされていたのだろうか。貴人の墓としてまつられたか、それとも弓矢でも束ねてしまっていたのだろうか。


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また、いつのものか分からないが小さな井戸が掘られており、今でも水をたたえている。

ここで、かつては馬や足軽たちがのどを潤したのであろうか。


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がけ下には、小坪方面へ抜けるという、抜け穴と呼ばれる穴が未だに残されている。

 

この中はとても暗く、懐中電灯でもなければ入る事はためらわれるが、スマホの灯りを頼りに中に入ってみると一本道で、中も平坦で歩きやすく一見の価値はあるが、堂内は巨大なゲジゲジがたくさんいる事も追記しておく。

 

この抜け穴を抜けていくとどこに出るのかは・・・皆さまの探索にゆだねるとしましょう! みうけんは行ってみましたが、まぁ、こんなもんかね。って感じであった。


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この住吉神社から眺める鎌倉の海は美しく、正覚寺のふくよかな屋根の背後に広がる青空はどこまでも続き、寄せては返す潮騒だけが昔と変わらず往時の息吹を今に伝えているのである。


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だが、今ではすっかり平和と静寂の中にある住吉神社正覚寺であるが、今から500年ほど昔の様子は違っていた。

 

永正9年(1512年)、三浦一族が支配する相模の国を狙って力を蓄えていた北条早雲はいよいよ相模の攻略を開始すると、三浦一族の当主である三浦道寸の居城であった岡崎城に襲い掛かり、これを陥落せしめた。

 

三浦道寸は戦線を退け、弟の詰める住吉城まで退くが、名城とうたわれた住吉城も多勢に無勢、ほどなくして陥落して三浦一族は新井城に追い詰められ、やがて三浦一族は終焉を迎えることとなるのである。

 

住吉城が陥落するとき、城主であった三浦道香は深手を負い、わずかな家臣と共に逗子の延命寺まで逃れてきた。そして、兄である三浦道寸に三浦一族の運命を託すして逃すと、自らはわずかな従者と共に壮絶な自害をして果てたのである。

 

いま、晴天の下には真新しい本堂が聳えてまさに平和の真っただ中にあるような延命寺であるが、ここはまごう事なき悲劇の舞台となった寺なのである。


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いま、この開放感あふれる明るい境内の隅には、戦乱の中に生きては露と消えた悲運の武将、三浦道香と合わせて7人の主従の墓がひっそりと並び、今となっては足を止め手を合わせる人もなく、戦国の時代に生きたことの物悲しさをここに語っているかのようである。


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この墓は三浦道香の家来であった菊池幸衛門という武将が主君の死をいたんで建立し、その後は仏門に入って沙彌了裕と名を改めると延命寺の再興に尽力し、主君の菩提を弔う事に人生をささげたのだという。


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いま、夕暮れの中にひっそりとたたずむ三浦道香の墓に手を合わせるとき、さほど遠くない逗子の海岸から吹き寄せてくる海風が、かつて住吉城の山並みに木霊したであろう武士たちの鬨の声を運んでくるようで、一抹の悲しさと感慨をさそうのである。