三浦半島を南下していくと横須賀市が三浦半島の大部分を占める地域に入るが、その少し手前、三浦半島の中心にほど近く、葉山町と横須賀市の町境にある木古庭の里は通る人も車もまばらで、昼なお静かな日本の原風景を見ることができる。
この木古庭には不動滝と呼ばれる滝が昼なおうっそうとして薄暗い木々の中にせせらぎを生み出し、その近くには瀧谷山瀧不動堂が凛として建立され、この地に住む人々の信仰の対象となっているのは別記事で述べたとおりである。
その不動堂の脇には人気も少なく静寂そのものといった神明社があるが、この神明社が一度廃絶の憂き目に遭いながら力強く復活した神明社であることは、この地域に住む者にしか知られていない、ひっそりと語り継がれてきた哀しき歴史なのでもある。
この地にはもともと伊東家という旧家があるが、かつてこの地域の名主をも務めたという富農としてこの地では名高い。
その伊東家には「地誌明細記」と「社寺明細書」があり、それによればこの神明社は木古庭の氏神として「藪の里1203番」にあったと記されているという。
その祭神は天照大神、向津日實尊(原文ママ・むかつひめのみこと)を祀っていたものの、明治42年11月18日に「政治権力の干渉」により廃絶されて祭神、土地共に上山口杉山神社に合祀・統合され、社殿は取り壊されて当地は荒廃の極みであったという。
時は流れて終戦後の昭和21年、この国が大日本帝国から日本国へと生まれ変わってからは、有志が集まってご祭神を杉山神社にご在籍のままこの滝不動堂の境内にお迎えすることとした。しかし、日本中が貧しかった時代であり急ごしらえのお社は修理もままならず、老朽化に任せるばかりでその惨状は目を覆うばかりであったという。
ようやく日本の経済が上を向いた昭和41年になると、再び有志が集まって神社再興の機運は大いに高まり、この計画に賛同した伊東家によって境内地370坪あまりが寄進され、それに背を押される形で浄財集めに奔走した結果、翌々年の昭和43年8月に立派な本殿を完成させるに至ったのである。
同月24日遷宮式が盛大に挙行されると、60年間に渡って苦難の旅を続けておられたご祭神は、この地にようやく安住の地を得たのである。
神奈川県による調査でも、この神明社は正当な神道に従って祭祀を行うことにより、あわせて社会福祉に貢献するに足りるとして昭和45年、晴れて宗教法人として認可されるに至ったのであるという。
それから、さらに浄財は多く集まって昭和49年には現在の立派な拝殿が完成するなど、崇敬を集め繁栄を見せている。
時代は昭和から平成、平成から令和へと変わり時代も人々の生活も目まぐるしく変貌を続けているのであるが、この木古庭の里を見守り続ける神明社と氏子たちの営みは今日も変わることなく、一途な信仰心と敬神生活の心を今の世に伝えているのである。