三浦半島のランドマークである引橋の交差点から、三浦海岸に至る道が国道134号線です。
国道とはいっても平日の昼間ともなれば、通る車も地元の車ばかりとなります。まさに地元の方の生活道路といった感じがします。
その134号線の下宮田交差点から西へ進み、妙音寺へと向かう細い道へと入っていきます。
ここまでくれば車などですれ違うことは難しく、小回りの効く原付の力の見せ所でしょう。
この辺りは、かつて水田地帯だったところを住宅街へと変えたところです。
その隅に、やがてコンクリートで作られた門柱が現れ「飯森神社」と書かれたプレートがはめ込まれているのが分かります。
ここは現在は無人の神社で、三浦海岸駅近くの白山神社の宮司さんが兼務されているようです。
この飯森神社は、江戸時代後期に編纂された「新編相模国風土紀稿」の「三浦郡 衣笠荘 下宮田村」の項で「子神社」と紹いう名前で簡単に紹介されています。
子神社
大黒天石像ヲ置。正徳元年建 妙音寺持
入ってすぐ、小さな石祠がありますので一礼します。
石祠というか、祠を石の室で囲ったもので、今でも里の人たちから大切にお祀りされているようです。
その先に曲がりくねった階段があり、階段を上ったところが現在の飯森神社、「新編相模国風土紀稿」でいうところの「子神社」です。
朱で鮮やかに塗られた鋼鉄製の明神鳥居がよく新緑の中に映えていました。小さな神社ですが全体的に清々しい雰囲気で、来るものを全て清めてくれるかのような爽やかさがあります。
この飯森神社、やはり三浦半島を代表する歴史史料の「三浦古尋録」には「飯森乳母神ノ社」と説明されています。乳母(うば)の神というのがまた面白い名前です。
昭和10年に発行された「三浦郡神社由緒記」という本がありますが、その中には「初声村下宮田飯森鎮座」の神社として解説されていました。
それによれば、祭神は大己貴命(おほなむぢのみこと=大国主命の別名)、萱野比売命(かやのひめのみこと=屋根などを作るのに使われたカヤという草の神様)です。
祭神のうち、大己貴命は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の子です。
この神社が、かつての「子(ね)の神社」の頃に祀られていた「大黒天」は文字通りダイコクテンと読み、そこから「大国天=大国主命」に変わったのかもしれません。
大黒天は現在では七福神の1人で、福徳と財宝の神として崇められていますが、古代インドでは戦争と闇黒の神様でした。
それが農業国であった日本に伝わってきてからは生産と豊壌の神様に変化したと言われています。
これは、「野を司る姥(うば)神」が生命の源を生み出す乳母に変化したように、農耕の中に生きる人々の需要と願いに合わせ、時と共に変化を遂げていったものと推測できます。
また、もう1柱の萱野比売命は、もともとは野原や草原の神様でした。
慶長年間(1596〜1614)、妙音寺の住職であった賢栄法印が勧請したと伝えられており、先ほども述べた「野を司る姥(うば)神」として祀られたものが、明治44年(1911)に子神社に合祀されたために、合わせて飯森神社という名に変えたものだそうです。
現在では屋根といえばトタンや瓦で葺きますが、かつてはカヤ葺が主流でした。
当然、カヤは人々の生活には欠かせない農作物の一つでもあり、その守護神としての性格も合わせもっていてもおかしくはないでしょう。
かつて、「三浦古尋録」で「此森処々エ見エル海上ヨリ船々目当ニスル森ナリ」と記載され、この飯森の丘は今も昔も海や里を見下ろす神域として村人の中にあり続けたようです。
この飯森神社、現在でも毎年10月14日には祭礼が開かれているようです。
また、拝殿の中には古い茶釜を賽銭箱としたものが置かれ、五穀豊穣と家内安全を願う人たちが訪れては、賽銭を投げて手を合わせていく姿を見ることができ、ここにも絶え間ない人々の信心を垣間見ることが出来るのです。