みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※記事は基本的に毎日18時に更新です。

恐ろしい大蛇と武将の伝説 城ヶ島の楫の三郎山神社(三浦市)

三浦半島は自宅からも近く、少し原付で走れば風光明媚な光景が楽しめるところです。

実に気軽に行けるとあって、みうけんのお気に入りのツーリングスポットです。

 

さて、この度三浦半島の先端の離れ小島、城ヶ島へとやってきました。

原付(125cc)であれば、15分もあれば島内を一周できてしまうような小さな島ですが、本土とは城ヶ島大橋で結ばれ、その橋も無料となったので通いやすくなりました。

 

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さて、この城ヶ島の西岸の果てのところに、磯の中にひときわ目立つこんもりとした小山があります。

 

この島は「楫の三郎山」(かじのさぶろうやま)と呼ばれていて、かつては麓を海に洗われるような離れ小島ともいうべきものでしたが、関東大震災の際に隆起してから現在のような陸続きの小山となりました。

 

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この山(小島)の近く、現在の城ヶ島灯台の表坂登口の近くには、かつて「牛が池」という池があったそうです。

現在は開発により姿を消してしまいましたから、どのような大きさの池であったか想像すらできません。

 

言い伝えによれば、かつてこの池に大蛇が住んでいたそうです。

この大蛇は池のヌシであったので、「ヌシが池」がいつしか「ウシが池」に変わったのではないか、と言われています。

また、池の形が牛の形に似ていたとか、水牛が棲んでいたとも言われています。

 

この大蛇を見たものは、必ず熱病にうなされると恐れられていました。

ある時は漁師が山の近くを舟で通ると大蛇と出会い、その後はしばらく熱病に悩まされたとか、犬を連れて山に近づくとけたたましく犬が吠える先に大蛇がトグロを巻いており、やはり熱にうなされたという話、一年に一度、大蛇が海を渡ってどこかへ行ったという話がいくつも残されています。

 

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そんなわけで、この「楫の三郎山」は登れば祟りがある、と固く信じられ、永く誰も近づかないようなところでした。

 

しかし、大正5年か6年のころ、城ヶ島にある城島山 常光寺の住職が先陣をきって若者を集め、探険隊を組織して登山を試みた事がありました。

 

探検隊は舟を楫の三郎山につけると、木の枝にすがり、崖をはいつくばるようにして登っていったそうです。

 

ようやく頂上にたどりつくとそこには大蛇の姿はなく、墓石がぽつんと残されているだけでした。

 

この墓石は500年前のむかし、室町時代から戦国時代にかけて相模三浦氏の当主をつとめた三浦時高が建てたといわれているもので、宝筐院型というタイプのものです。

 

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この墓石の脇は一本の太い樫の木が生えていました。

これが激しい潮風に吹かれて変形し、まるで地を這うように育ったので、なるほど大蛇のように見えたというそうです。

 

その枝葉も風のあまりの強さに、枝をまっすぐ伸ばす事ができず、幹に巻き付くようにして大蛇のウロコのようになっていたそうです。

その枝葉が風に揺れるそのさまは、まさに大蛇のウロコそのものであったといいます。

 

この樫はほどなくして枯れてしまい現在は見られませんが、関東大震災の隆起によって形成された典型的なリアス式海岸は唯一無二の絶景を見せています。

 

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このうち、山の北側は「酔女が浜」と呼ばれる美しい海辺です。

鎌倉時代のころ鎌倉幕府の将軍であった源頼朝がここで宴を催したことがあり、その際に侍女が酔ったところであるとも、島の娘たちが源頼朝公に所望されて舞った場所であるとも言われています。

 

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この山の頂上には、現在は海南神社の御祭神である藤原資盈(ふじわらのすけみつ)の家臣、楫の三郎が祀られているゆえに楫の三郎山神社という神社が残されています。

 

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平安時代、清和天皇のころに皇位継承争いに巻き込まれ、無実の罪によって筑紫国(現在の福岡県あたり)へと左遷されていった藤原資盈が、暴風によって三浦半島に流れ着いて住み着き、三浦三崎一帯の長に推戴されました。

 

藤原資盈は 周囲の海賊を平定し、よく徳政を敷いたことから里人たちから崇敬されるあまり、没後には祠を建てて祀られます。その祠が現在の海南神社の起りであるとされています。

 

この藤原資盈が三崎へ流れ着いたとき、船の舵(かじ)をとっていたのが楫の三郎その人であり、このとき、藤原資盈に「我が棲むべき地があるか?」と問われたので、持っていた舵で占ったところ、ここに舵が落ちたので、その地を鎮座の地と決めたのだという言い伝えがあります。

 

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「舵」「楫」はどちらも「かじ」と読み、史料によっては「梶」の字を当てているところもあります。

 

 

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いま、晩夏の日差しと優しげな海風が爽やかな楫の三郎山にのぼって眼科に海を見渡すとき、この美しい海に抱かれた小さな小山にもかつては恐ろしい大蛇の伝説が伝えられて人々を恐れさせ、また数百年に渡る歴史の言い伝えが連綿と続いていることに、三浦半島の自然と民話の奥深さを改めて噛みしめたのです。

 

 

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