夏の風と日差しが心地よい夏の日の午後、原付を走らせて城ケ島へとやってきました。
原付(2種)であれば、一周したって15分もあれば巡れてしまう小さな島ではありますが、島の東側一帯は「城ケ島公園」として整備されています。
この城ケ島公園の下側、島の東岸いったいは昔から「安房崎」と呼ばれていました。
かつて、現在の千葉県の先端あたりにあった安房国を一望するところというので、今なお「安房崎」と呼ばれているのだそうです。
また、古くはこの一帯、特に旧灯台のある岩礁のあたりを「神楽高根」(かぐらたかね)と呼んでいました。
今から800年ほどむかし、鎌倉幕府の将軍が洲崎明神へ神楽を奉納したのが由来とされています。
この「洲崎明神」は、今なおうっそうと茂る森の中にあり、まるで廃墟のようになりながらも永らえているのが見て取れます。
このお宮に行くには、城ケ島公園先端の階段を下りきったところ、海に向かって右手の茂みの中にひっそりとたたずんでいます。
このお宮の歴史は古く、江戸時代に編纂された一大歴史資料である「新編相模国風土記稿」にも「須能美佐木(すのみさき)」として、しっかりと紹介されています。
海を隔て房州洲崎明神の社地と相対す 故に神号とす 藤原資盈(すけみつ)が郎等(ママ)の霊を祀りしと云ふ
とあり、当時は社地の称名のみで社はないと記されていました。
かつて、ここには鳥居もあったようです。
現在はすっかり腐ってしまい、土に還ろうとしています。
また、江戸時代の宝暦6年(1755年)に編纂された「三崎志」によれば「海南家司四郎殿ヲ祭ル」とあります。
海南神社の祭神は藤原資盈、資盈の后である盈渡姫(みつわたりひめ)が祭神です。
さらに、向ヶ崎諏訪神社には家臣である「太郎」、(向ヶ崎諏訪神社)、三崎住吉神社には「二郎」、城ケ島灘ヶ崎の揖の三郎山社には「三郎」が祀られていて、ここ洲の御前神社には「四郎」が祀られていることから、藤原資盈家の四天王が揃ったことになるのです。
「三崎郷土史考」によれば、洲の御前社の祭神「四郎」は勇猛なことこの上なく、さらに怪力をもって岩をも噛み砕き、鉄棒をひねり折るほどだったといいます。
そのことから、もともとは「沙荒(すあら)御前」と呼ばれていましたが、仁和元年(885年)の夏に天が砂の雨を降らせたという不思議な言い伝えから「荒」の字を除かれ、さらに「沙」を「洲」に改めた」とあるのです。
いま、木々がうっそうとしげり、訪れる人もまばらな社殿の前にひざまづいて手を合わせるとき、かつてこの地で鎌倉将軍ととの従者たちがこぞって神楽を奉納したというあでやかな日々の思い出が今の世の静寂の中に蘇ってくるかのようで、あまりに過ぎ去った時の流れと世の営みを目の当たりとし、感慨もひとしおです。
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