JR南武線、平間駅の近くの住宅街にやってきました。
現代となっては何の変哲もない、実にどこにでもある住宅街の装いですが、道を一本入ったところ、住宅やアパートに囲まれた一角に木々がうっそうと生い茂り、その根元にこんもりとした塚が残されています。
また、その塚には祠やお地蔵さまがいらっしゃいます。
これは、銚子塚と呼ばれていまなお大切に管理されています。
江戸幕府の第5代征夷大将軍、徳川綱吉公の治世にあたる元禄年間の終わりごろのことです。
江戸城において赤穂藩藩主であった浅野長矩が吉良義央に侮辱されたことに憤慨して切りつけ、結局のところ城内で刃傷沙汰を起こした罪で切腹させられるという事件がありました。
主君のかたきを討とうと、赤穂藩のさむらいたちが続々に江戸へと集まります。
世にいう「忠臣蔵」のお話です。
川を渡り、山を越え、江戸へむけて歩いてきた赤穂藩のさむらいたちは、このあたりで宿をとることにしました。
しかし、人の多い宿場宿に泊まると目立ってしまうことをおそれ、川崎市平間にある昔なじみの宮大工、渡辺喜衛門の家に宿を求めたのです。
渡辺喜衛門は大石内蔵助とは仲がよく、赤穂のさむらいたちの心情もよく理解していました。
そこで、鹿島田にあった称名寺を紹介したのです。
やがて、元禄15年(1702年)12月になりました。
雪がしんしんと降るこの日、大将であった大石内蔵助から集合の命が下ります。
すっかり身支度を整えたさむらい達は、称名寺の住職に深々と礼を述べると、ひとりひとりが形見の品を残して寺を後にしたのです。
次にさむらい達は渡辺喜衛門の自宅へいき、今までの礼を述べるとともに、これより江戸へ向かい義をなすが、我々がここにいたこと、出かけて行ったことは誰にも話さぬようにと願い出てきました。
渡辺喜衛門は神棚に備えていたお神酒を持ってきます。
そのお神酒を入れていた金の徳利は、かつて大石内蔵助からもらったものでした。
さむらい達はお神酒を土器(かわらけ=小さな素焼きのお皿)についでもらい、飲み干すと、その土器を庭石に投げつけて割り、信義を守り抜くことを誓ったのです。
やがてさむらい達は江戸に赴き、みごと主君のかたきを討ち取ったのです。
後になって、あの時のさむらい達が無事にかたきを討ったことを知った渡辺喜衛門は、大石内蔵助からもらった金の徳利を自分の庭に埋め、築山としました。
徳利は「銚子」とも呼ぶため、この塚は「銚子塚」と呼ばれるようになり、今もこの塚が残されているということです。
塚の上には、そのころに植えられたケヤキの巨木がそびえていましたが、戦災で焼けて今は違う木々が生い茂り、都会の中の小鳥たちのオアシスとなっています。
渡辺喜衛門の家はますます発展し、現在でも御子孫が近くにお住まいだということです。
その御子孫の一家は、建築業者として「銚子塚建設」を続けていらっしゃいます。
また、称名寺は赤穂浪士のゆかりの地として、現在では山門のわきにその旨を記念する石碑が建てられているのが見て取れるのです。
いま、静かな称名寺の境内を歩くとき、聞こえてくるのはどこかでさえずる小鳥たちのさえずりと、自らが下げる数珠の珠がこすれる音ばかりの静寂で、かつてここに主君の無念を胸にきざむ義心の志士たちが隠れていたことを思うと、歴史というものの奥深さをいまさらながらに噛みしめるのです。
【みうけんさんおススメの本もどうぞ】